稍ゝおも

ややおもしろく、ややおもたく、jajaのJa,Ja,おもうこと

表現の不自由展

#がんばれあいちトリエンナーレ #あいちトリエンナーレを支持します
リアル「表現の不自由展」だよねって言ってられるうちはまだよかったがウヨらが大挙して妨害し始めたとあっては・・。「この作品は自分にとって不快だ」と感想を持つのは自由だけど「この作品は日本人全員にとって不快だ」に拡大解釈し、またたとえそれが事実だとしても(『カニバ パリ人肉事件38年目の真実』なんて作品は見た人の殆どが不快感を感じると思う・・でも実はそれが作品の価値の一部を成しているのだけど)、だからといって「そんな作品作るな」とか「そんな作品撤去せよ」とかいう権利は誰にもないのだという、基本中の基本が共有されてないとすると、これはもう徹底的にまずいです。

とかいうことをせめて書こうと思ってたのに「中止」ですって〜〜〜???!!!
このかんの経緯をつぶさに記録して報告・展示するだけでも立派な「表現の不自由」作品となるでしょうに。(今からでもそうすれば?)
これを展示する時点でこの手の騒ぎは十分予想できたのだから、ちゃんといろんな備えをしとくべきだったと、まぁいわば津田氏の甘さを指摘する向きもあるようだけど、それでおしまいにしてしまう気にはなれないな・・。

付け加えます。(いま8月8日なり)

ほんまに、このかんの一部始終をドキュメンタリー映画にすればリアル「表現の不自由展その後」になると思う。既にやってる人いるかもしれないけど。

「ガソリン携行缶持ってお邪魔する」という卑劣この上ない脅迫から、京都アニメーションの事件でむざむざ奪われてしまった多くの貴重な才能をあらためて悼む。

表現者はそんなにも(適切に護られることなく)危険にさらされているということ。
お国に楯突く人は「非国民」だとか、お国が(あるいは公が)金を出してやるからにはお国が口を出して当然なのだとか、そういう戦前レベルの人たちがかくも多くいて、しかも公権力の頭にいるということ。

で、どうすんの?ですよね。(うまく着地しない)

にんげん、こわい

べつにそう意識して2本立てを組んでいるわけではないが・・
ある日のハシゴは『よこがお』と『カニバ パリ人肉事件38年目の真実』。
どちらも怖かったです〜・・。

yokogao-movie.jp

caniba-movie.com

生徒に古文を教えるとき、古文では「念ず」も「愛す」も「ものす」も全部サ変動詞なんだよという説明をし、でも現代語だと違うでしょ? 「念じる」ならば「念じない、念じます、念じる、念じるとき、念じれば、念じよ・念じろ」と上一になるし、「愛す」ならば「愛さない、愛します、愛す、愛すとき、愛せば、愛せ、愛そう」と五段になる。・・と言ったそばから、でも「愛する」も言うし「愛するとき」も言うし「愛すれば」も言うよなぁ・・と気づく。だからといって現代語のサ変動詞のように(「勉強しない」「勉強しろ」のように)「愛しない」「愛しろ」とは決して言わないよね(言う?)。古語のサ変動詞の五段化に、「愛する(古語の連体形が現代語では終止形になるパターン)、愛するとき、愛すれども・愛すれば」という古語が中途半端に残っているということか・・。
・・という話が書きたいわけではなく・・
にんげんの「愛す」とか「好き」とかに、おそろしい動機がふくまれているよなぁ・・てこと。
市川実日子のようなこと、ふつうにやっちゃうひとはたくさんいるんじゃないだろうか。好きな相手を「支配する」「乗っとる」。それを「おそろしい」とか意識せずに・・。
深田晃司監督を最初にすごい!と意識したのは『歓待』(2010)で、あれも相手に(よその家に)侵入し乗っ取り支配する話だったけど(ちなみにそのときに初めて凄い!と意識したのが古舘寛治で、それから目が離せなく、想田和弘監督の『演劇1』『演劇2』(2012)を見て以来、もとから好きだった平田オリザ青年団からますます目が離せなく、本拠地こまばアゴラでちゃんとその公演を見るのが目下のところの夢ですわぁ・・)。
話をもどすと・・怖いのはそのように自分の内なる動機が達せられるのならば(それが相手にどんな結果をもたらすのかをまったく考えず)平然と嘘ついちゃう市川実日子なんだけど、それにまんまとはまり、人生を台無しにされ、なにもかも捨てて全力で(そしてしずかに)復讐という無償の行為に身を投じる筒井真理子がものすごくて、まためちゃ美しかった!
ちなみに、わたしは実人生で一度だけ、こういうのにはめられたことがある。もうええ歳になってたけどそういうのにはまるでナイーヴで、ほんとうにびっくりして、まんまとはめられた自分がものすごく間抜けに思えて、相手のそういうやりかたにもあきれはてて、もう復讐などおもいつく余裕もなく(というか、復讐するほどにも実害はなかったのだけど)、ただただその人から離れることに懸命でした。そういう相手が嫌いという気持ちはなく、そういう人もいるんだぁ・・そしてそういうところに「はめる」「はまる」「はめられる」人間関係もあるんだぁ・・と、お子ちゃまのわたしは思いましたですよ・・。(とか書きながら、じぶんがまるきりそれと気づかずだれかにたいしてそれをやってたら・・とおもうとまたそれもおそろしい。いや、だれしも多かれ少なかれ持ってるんだろうなぁ・・)

佐川一政については・・もうこのドキュメンタリーときたら、佐川とその弟のほとんどどアップばっかりでもう目のやり場がないというか、こんなに胸糞悪いどアップの連続は初めてで、もう生理的に見続けているのがしんどいばっかりで・・。
佐川ももちろん大したもんだけどその弟もなかなかのもんで、しかしこれがまた意外と陳腐に見えてしまう・・ありふれたことのように見えてしまうことがおそろしい。
こういうのも「にんげん」のなかに普通にあるというのが、また怖ろしい・・。
エンドクレジットに流れるフランス語の唄はなんだったんだろう? folie〜folie〜(狂気・狂気・・)とか繰り返してさ。「狂気」のすこしばかりは身の内に抱えているし心得もしているといえ・・(て、そのことが怖いてか?)。いや、わたしのんはホンマにありふれた狂気ですし・・(言い訳にならない?)。

稠密な映画の時間が持続する

この画面の強度はどうだ・・稠密な映画時間がしっかりと持続する。ものすごく静かなあるいは単調なあるいは動きの少ない場面にあってさえ・・こういう極上の時を味わいたいがために、わたしは映画を見続けるのだと思う。
・・とおもわせる映画がたまにあって『田園の守り人たち』とはまさしくそんな映画でした。

moribito-movie.com

Les Gardiennes (film) — Wikipédia

フランス語タイトルでわかるけど農村の守り手はみな女性たち。その時代のその場所の暮らしをきちんと生きている人びとをノスタルジアでなくきちんとリアルに収めてある。グザヴィエ・ボーヴォワXavier Beauvoisの確かな演出力にカロリーヌ・シャンプティエCaroline Champetierの撮影の素晴らしさ!くっきりとした光のもとに捉えられる種蒔きの光景、黄金色に染まる収穫の情景、薪割りや炭焼きやあらゆる田舎暮らしの断片・・そして霧や煙の白さ・・。
それにしても、かつて憧れた美しい女優さんたちがみな軒並み美しい老女優さんと化しているのがなんとも・・。ナタリー・バイNathalie Baye、ごくごく若いときから中年の頃、そして今に至るまで大好き。娘のローラ・スメットLaura Smet、似てない母娘だと思ってたけど、切り返しショットでみると口元がそっくりなのね。どうやっても都会の女に見える二人(しかしナタリーは北ノルマンディーのメンヌヴィルMainnevilleという田舎の村生まれ)が、田舎には不似合いな粋さ上品さをたたえた特別な田舎女にしか見えない。対して赤毛と体つきが田舎っぽいイリス・ブリーIris Bry(実はパリ生まれ)の愛らしさ。終盤の変身は時代の移り変わりをも告げて。みんな農作業ふくめちゃんと仕事してましたねぇ・・。
家族を守るためと嘯き毅然とした表情で罪を犯すナタリー・バイの美しさ!そしてのちに犯した罪に怯える姿の美しさ!圧倒的でした。

   *
この日はもう一本『ワイルドライフ』。

映画『ワイルドライフ』公式サイト

en.wikipedia.org俳優としてのポール・ダノPaul Danoを初めて意識して見たのは『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』There Will Be Blood(2007)だったかその前だったか。なんて不思議な(狂気を秘めた)存在感をたたえた子だろうと思ったけど、その子が、その若い頃の自分とすこし面差しの通う少年を主人公にこんな素晴らしい映画を監督するようになるなんてね。

こちらもまたしっかりと映画的時間の流れる映画でした。少年が体験する両親の修羅場=ワイルドライフ。息子の前でどうしてもそんなふうに振る舞わずにはおられないキャリー・マリガンCarey Mulliganが身に沁みてね。

僕はイエス様が嫌い

jesus-movie.com大阪で見逃したので神戸まで見に行った。終映23:00過ぎ。
帰宅してまたひと仕事。

あたしだってイエス様が嫌いだ。
若くして亡くなった級友を思った。

・・なのに

主よおわりまで つかえまつらん
みそばはなれず おらせたまえ
世のたたかいは はげしくとも
みはたのもとへ おらせたまえ

・・よう覚えていることよ

「みそば」であれ「みはた」であれ
「みもと」「みむね」「みこ」「みたま」「みこころ」「みて」であれ
讃美歌に頻出する「み」の音が好き。

さっきの歌ではマイナーコードのあるとこと半音進行のあるとこが好き。

・・日常

小松菜2把128円。このたびは西宮産なのでこないだの茨城産4把よりたっぷりある。地のもんはちゃんと洗わんとこまかい砂が残ってるので気をつけないといけないけどね。

しかしこの季節になんで小松菜続き?緑の野菜を眺めてみたところ冬瓜に挑戦する気にはならんかったブロッコリー意外と高く損と感じたレタス類もおなじく胡瓜ピーマンももひとつ。だからといってキャベツという気にはなおさらならなかった・・。

この季節トマトは欠かさず冷蔵庫にあり毎日なんらかのかたちで消費するのでその組み合わせが続くことになる。

果物はプラムだソルダムだ名前はちがうけどすもも類が美味しい。桃も美味しい。すもももももももものうち。桃李もの言わざれども下自ら蹊を成す。李下に冠を正さず。韓国の姓に多い李さんって「すももさん」なわけか。英語表記は"Li"なのにハングル表記は"이"(発音はほぼ「イ」)とはこれ如何に?

投票は金曜に済ませている。今朝ひと仕事済ませ今からまたふた仕事あり夜は映画見。いつも行ってるジムのプログラムは今日は残念ながらパス。

・・ああ意味のないエントリーじゃ。

(仕事にとりかかるのが嫌なのである。)

ほんまに酷い・・

第一報を聞いたときから時間を追うにつれて惨状がだんだん明らかになり、もう絶句するばかりです・・京都アニメーションの蒙ったあまりにも酷い災禍のことですが・・。犠牲になられた方々は本当に気の毒としか言いようがありません。

放火とか、あらゆる暴力は許せないけど、ことに表現者に向けられたこの種の暴力は、ぜったいあってはならないことですよね。

   *

しかしその犯人が抱いていたとかいう逆恨み、今後もありうるのかもしれないと思うと、こちらも怖いです。

物語のパターンとか、あるいは音楽でもメロディのパターンとか、もうこれまでに出し尽くされていて、何か自分独自のものを創造したと思っていても、既に似通ったものがあったり、同時代に同じようなものを作っている人がいるのかもしれない。

自分が何かオリジナルな小説だったり楽曲だったりを書いたと思い込んでいると、ある日、それに似通ったものが世間に現れて、それがベストセラーになったりする。そうすると「盗まれた」と思い込んでしまう・・。小説なんかだと「自分のことを勝手にモデルにされた」という被害妄想もあるそうですが。(「わたしのことを書いてくれた」という共感ならいいのですが・・)

盗作訴訟騒ぎでは、物語では『ハリー・ポッター』とか、楽曲では『アナと雪の女王』の主題歌とかでありましたっけ? 意図的にイタダいちゃったものももちろんあるでしょうけど(『ジャングル大帝』をパクった『ライオン・キング』のようにね)、「たまたま似てしまう」ことが、これからますます多くなるのではないかと思われます。大手の制作会社なんかだとそういう訴訟への備えももうできてんでしょうけど。

著作権とか・・作品を「自分のもの」とする概念がこれから変わろうとしている、あるいは変わらなければならない時代に来ているのかもしれません。

(・・なんてこともわたしのオリジナルな考えではなく既に多くの人が言ってることですよね。)

 

話、繋がる

今夜(日付は昨日)は十五夜の満月! 例によって月見酒を楽しんでます。このまま梅雨が明けてくれるといいなぁ・・。
あと3日しか会期のない展覧会ですが・・。

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四國五郎展

www.museum.osaka-u.ac.jp大阪大学豊中キャンパスにある大阪大学総合学術博物館で7月20日(土)までやってます。なんと無料! 待兼山のアイドル、マチカネワニくんも待ってるよ!
「四國五郎展」。絵本『おこりじぞう』の原画など絵画作品やスケッチなどはもちろん、シベリア抑留時の記録を詳細に書いた『わが青春の記録』、広島で峠三吉らとやってた「辻詩」など、貴重で感動的な資料がいっぱいです。
なんで、これをいまごろ書くかというと(見たそのときに書きそびれたというのもあるが)、ゆくりなくも昨日(日付は一昨日)見た映画から思い出したからでありました。
先週に引き続きフィリップ・ガレルPhilippe GARRELの昔の作品。
『救いの接吻』Les Baisers de secours (1989)

Les Baisers de secours — Wikipédia

モーリスMaurice GARREL、フィリップ、ルイLouis GARRELの3世代揃い踏み。ルイのお母さんで当時の妻君のブリジット・シィBrigitte SYも出てます。

Barney WILENのサックス一本のジャズがめちゃカッコよくて、フィリップ特有のモノクロ画面、白黒映画というよりコントラストの低いグレー映画の美しさとめちゃ合ってます。ごくごく自然にやってるようでありながらやはり演出されてる当時4〜5歳のルイ(いまとちがう髪の色とか今のままの目元とかめちゃ可愛い)含め、夫婦のあいだでようもまあこんなにねっとりきっついやりとりやってるなぁと呆れるぐらい、もちろん事実がベースにあるんだろうけどきっちり映画として再構成されていたのが見事でした。
わたしがフィリップ・ガレルの作品を初めて知ったのは『自由、夜』Liberté, la nuit(1983)という作品で、例のNICOと一緒にやってた『内なる傷痕』La Cicatrice intérieure (1972)みたいなぶっ飛んだ傑作含む初期の作品は後追いで知りました。
『自由、夜』のときには、既にフィリップ特有のローコントラストのグレーの濃淡のようなルックスは獲得していた。
それに主演していたのが、エマニュエル・リヴァEmmanuelle RIVA(当時55歳ぐらい? でも今や90歳過ぎの御歳で今なお美しき老婆として映画出演していらっしゃいます。)
そのエマニュエル・リヴァが、キャリアの最初期にあたる21歳頃に出演したのが、
ヒロシマ・モナムール』Hiroshima mon amour(1959)
監督 : アラン・レネ Alain RESNAIS
原作 : マルグリット・デュラス Marguerite DURAS
主演 : 岡田英次, エマニュエル・リヴァ
(封切り当時の邦題は『二十四時間の情事』。けど原題そのものを日本語読みしたタイトルでリバイバル上映されたと思う)。
で、その後世間を驚かせたのが、そのエマニュエル・リヴァが、その映画の撮影でまだ復興途上の広島を訪れたとき、玄人はだしの腕でもって、広島の街々、特にバラックのような貧しい家々のあるあたりや、そこに暮らす人々、子どもたちの姿を美しいモノクロ写真に収めていたということです。
(『HIROSHIMA 1958』というタイトルで書籍化されてます。)
そこでようやく話が繋がるのですが、「四國五郎展」に展示されてた絵の中に、1962年当時の広島の街を描いた作品があり、そこに描かれている家々がなんだか斜めになってて淋しげに肩寄せ合うように連なっていて、ああ、これって、エマニュエル・リヴァが撮った写真のような家々なんだろうなぁ・・と思ったことを、不意に思い出したのでありました。