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『嵐電』ーー映画の魔 の見つかる瞬間

www.randen-movie.com京福電鉄には叡電嵐電があって、学生時代は沿線上に友人が住んでた叡電の方によく乗ってたけど、嵐電もことあるごとに(いまでも)乗ります。(ちなみに来年のお花見は嵐電の沿線上に決まってます)。嵐電の方が、昔ながらの雰囲気をよく残していますよね。
京都のご当地映画ではありますが、ギミックの一つともなっている京都弁からして実は怪しい(ホンモノの京都弁は嵐電の昔のフィルムの上映会に来ている本物の地元民だけかな?)。劇団・地点も、北白川派も、京都が拠点ではありますが、(主に)外から京都にやって来た人たちの集うところ。京都で学生やったことのある人なら誰でも知ってると思いますが、地の京都人たちはこういう「よそ者」たちを優しくイケズに放っといてくれます。だからよそ者たちはわりと自由に好き勝手できる、住みやすい街なのです。
その怪しい京都弁にしたってそうなのですが、この映画、かっちり精緻に作りこまれた作品ではなく、むしろわざと手綱を緩くとって、そのときその場にいるみんな(電車も街も光も音も空気も俳優もスタッフも全て含めて)で動いてみて、やってみて、繰り返してみて、映画の「時間」(もしくは「時間」の映画)がそこに生まれるのを待っているような、いわば受け身の構えの映画とでもいうのかな。(たとえば先日このブログで誉めた『町田くんの世界』がすべてカッチリ作り込まれているのとは対照的)。もちろん映画学科の学生さんたちと一緒に作り上げたという経緯もあるのでしょうけど、こんな風に「映画の時間」が生まれる瞬間を捉えることのできる監督って、日本ではこの人含めて数人ぐらいしかいないのではないでしょうか。鈴木卓爾監督、俳優として見かけることの方が多いのですが、もっともっと撮ってほしいものです。
わたし個人は、安部聡子さんの初登場シーンが(そしてその人物像が)いなくなってしまったわたしの友人の個人的な思い出にかぶさって思わず涙し、そこから先は映画的瞬間の生まれるのを目撃するたびに涙し、涙・涙・涙で見終えました(流れるたぐいの涙ではなく目頭がじんと熱くなるたぐいですが)。
まったく接点がないとおもわれたところに接点が見つかりそこに無理くり裂け目を拡げるのが恋愛の魔であり狂気であり奇跡であるならば、それに惑う者も確信する者も逃げる者も接近する者もいて、一体この横顔はだれが発見したのか?この長回しを動かす力学はどうやって生まれたのか?それが見出された瞬間自体がもう映画の魔であり奇跡としか言いようがありません。わたしの大切な一本になると思います。
もひとつ書いていい? 鈴木卓爾監督、前作『ゾンからのメッセージ』を七藝で上映したとき、たまたまトークショーを聞く機会がありました。この映画、背景(というか重要なギミック、というかタイトルロール?)である謎の空間が不思議なギザギザ模様になってるところがひとつのミソで、その模様は映画史初期の実験映画さながらにフィルムのひとつひとつに色塗ったり傷つけたりしてつくったんだそうです。で、その時間と根気の要る作業を俳優含めスタッフみんなで暇さえあれば一所懸命内職のようにやってたんだそうで、だから完成までえらい時間がかかったと(笑)。監督に(そして作品に)魅力がなければ誰もそんなこと一緒になってやってくれないでしょうけど、そんな雰囲気をみんなのなかに作り出すことのできるのも、この監督の(そしてその作品の)魅力なんでしょうね。