『江湖儿女』もしくは『江湖兒女』
『帰れない二人』なぁ・・。
zh.wikipedia.org原題は「江湖のこどもたち(子女)」といった意味らしい。英題の"Ash Is Purest White"も悪くはないが解釈が過ぎるか。
江湖といって中国人が思い浮かべるのは、金庸などの武侠小説における「江湖」ではないだろうか。それともまっすぐに「裏社会」(任侠)の方を思い浮かべるのか? このあたりは詳しい方々のご教示を請いたいところでありますが。字幕では「渡世」とか書いてあったところのセリフが「江湖を渡る」みたいなこと言ってるんだろうな。(うーん悔しい!わたしは中国語のヒヤリングできん。)
いまの中国の社会を渡っていくのは武侠小説の主人公らの如く、ある度胸を決めて情なくモラルなく(まっとうな手段で生きる糧を稼ぐのではなく)意地と意気と才智(あるいはちょっとしたトリック)とで強かに生き抜いていくしかないのであろう。賈樟柯ジャ・ジャンクーに特徴的な街の表情、街の音楽、冒頭の赤ちゃんからしてその表情をする(単に急に起こされて不機嫌だっただけかもしれないが)、監督の視線の張り付く人物のその切実な生きざま。(「生きざま」という言葉は大嫌いなのだがこの映画の場合はそのように言ってもいいとおもう。)男の情の無さに顔色ひとつ変えずしかし断固として説明を要求する女は「情」ではなく「義理」のみで男に関わっていると・・。
で、
で、
で、ですよ!
予告篇からこの唄は流れてたので、もっともっともっと早く気づいているべきであったのだ!この主題歌、『狼 男たちの挽歌・最終章』のそれではあーりませんか!
『喋血雙雄』もしくは『喋血双雄 』英題 "The Killer "
ツイ・ハーク徐克プロデュース、吳宇森ジョン・ウー監督、周潤發チョウ・ユンファ主演の一連の香港ノワール作品の極北に位置する作品。主人公とその分身(この作品の場合、黒社会の男と警察官)というテーマが最もクリアに描かれ、このたび發仔(「ふぁっちゃい」と読んでくれ)の相方を務めたのがいつものあの人(悲し過ぎてここには表記できん)ではなく、まだ福々しくなる以前の李修賢ダニー・リーで、いつものあの方(よう書かん)がともすれば感情過剰演技に流れがちなのに対して、そのストイックさがかっこよくて、その二人の男のあいだに入る盲目のヒロインを演じる葉蒨文サリー・イップがこのうえなく美しくいじらしく、しかもクライマックス・シーンで白い鳩が盛大に飛ぶという・・。
そのサリーちゃんが唄うこの映画の主題歌が「淺醉一生」。このたびの『江湖儿女』に冒頭から、また繰り返し流れる唄なんですよね。(映画そのものの映像もチラッと流れます。)
『喋血雙雄』のヒロインが盲目であったことと対照を成すように、『江湖儿女』のヒロインは眼をくわっと見開いて、この仁義なき現代中国の変遷を渡りあるく。その抜かりない筈の彼女がふと目を離した(瞬時盲目になった)その隙に、大事なものが消えているのでありました・・。