稍ゝおも

ややおもしろく、ややおもたく、jajaのJa,Ja,おもうこと

麗月・祥月

今夜が満月であるはずなのに残念ながら台風一過の青空とはいかないで雨もよいの曇り空。昨夜もちょっと雲が多かったけど雲間から姿をのぞかせる(あんたたち邪魔よ!と言わんばかりに黒い雲をかきわけて白い肌のラインを顕示する女王さまみたいな)お月さまが綺麗で、その月を見ながら木屋町二条から高瀬川沿いをゆるゆると降りてくるお気に入りの帰宅コース(の一つ。ほかにもいくつかお気に入りの徒歩帰宅コースあります)。昨夜はあちこちのバーでラグビー観戦が盛り上がってたね。京都は外国人多いんで、うしろあたまも黒いのばかりでなく藁色もあり灰色もあり・・。

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昨日の京都エクスペリメントは以下の2演目でした。

kyoto-ex.jpロッコ出身の女性作家というのもあり、また演者らの顔つき身体つきの雰囲気からしても、まず連想したのはザカリート(女性たちが「レレレレレ・・」と舌を震わせ喉の奥を響かせてお祝いの意を表するやつね・・あれってアラブ人だけの習慣?元はベルベル人ムスリムの人たち全般?)で、音程などはあのハイトーンそのものなんだけど、ザカリートみたいに舌を使うわけではなく、いろんな発音をし(ことばにはなっていない)、変化させ、全体としてはリズムも和音もしっかり調えてあるので音楽として聴いていて快く、例えば、わたしが見た回は二条城の二の丸御殿台所の前庭を仕切ってやっていたので一般の観光客にはパフォーマンスそのものは見られないけれど、外からは十分聴こえていたはずで、なにごとならんと思われたでもあろうが、現代音楽の演奏(というかアカペラのコーラス)をやってるんですといえば十分鑑賞に値しただろう。(ブルガリアン・ヴォイスみたいなコーラスはみんな聴き慣れているだろうし)。そういう音楽的価値以上に、この発声をおこないながらする動作がもの凄くて、生きた音源が地面から生えているというか(なにか呪いでもかけられてそこに据えつけられているというか)、見てて辛くなるぐらいしんどい動きを全力で繰り返す。別の観客は世界中で(主に)女性に伝わる労働歌を連想したらしい。しんどい仕事、単調な繰り返し仕事を(そんな仕事をやらなきゃいけない己が身の運命を)嘆きながら、動作を促し、リズムを与え、気力を奮い立たせる歌。しかしわたしはもっと生きものが宿命的にもってる根源的なもの、それこそタイトルにある鴉が鳴き交わす、ある主体が意識的にそうしたいと意図して歌うのでなく、群れの歌(別の個体の歌)に誘発されて本能的に力の限りに歌い交わさずにはいられない、なにか切実なもの・・を感じさせた。その歌が全員の沈黙で終了すると(一人一人発声をやめて黙っていく姿は、運命の順序にしたがって・・年嵩の女性がよく言うところの「順番、順番」に、一人一人に死が訪れるかのようだ)、あとは弾かれたように喜びの歌と踊りが炸裂する。それまで離れることを許されなかったそれぞの位置を離れて自由に動き回り、みんなで言祝ぎ、観客も巻き込みながら・・(一緒に尾いて踊りたくなった。)

kyoto-ex.jp

庭劇団ペニノ『蛸入道 忘却ノ儀』
般若心経の今風(タニノクロウ風?)上演。いろんな解釈、いろんな改変、いろんなアレンジを加えて演奏しながら(観客もまた楽器を持ってそれに参加しながら)十数回の段階を経て蛸入道の儀式を執り行う。夜景の窓を閉めて閂をかける(これ結構怖い)ところから始まり、ガンガン火を焚いて演者も観客も汗まみれになりぐったりして、窓を再び開けると朝の光が射しているところで終わる、実際には2時間弱の持続時間を一夜を徹した長い時が過ぎたという体(てい)。
わたしもこの時とばかりじゃんじゃか鳴子を打ち鳴らしてきましたわん。不思議にいつもは汗っかきのわたしが汗まみれにはならずむしろ爽やかな気分でいたけど・・。
近代という時代を経たわたしたちは厄介なもので、もちろん「儀式」をホンキで信じるわけにはいかない。新興宗教の信者じゃないんだから。だからといって、全てを洒落だ、遊びだ、冗談だ、と片付けるわけにはいかない。それがやはりなんらかの(芸術の?)(創造的な?)営みとして成立するには、本気の何かが必要なのだ。イタコの言葉に真摯に耳を傾けるチョイ・カファイの一途に土方巽を慕う敬愛であったり、舞台美術に捧げるタニノクロウのコダワリであったり。
参加する観客ももちろん遊びで(楽しむために)その場にいるわけで、真剣に祈祷したりトランスしたりしていた人は見当たらなかったし(いたのかもしれないけど)、自我が何にも傷ついたり何にも更新されたりすることはないわけだけれど、このひとときの時間を愉快に消費してハイ終わりじゃまたつまんない気もあるよね。
実はわたしにとっては個人的に(無理くり付けた感もあるけど)意味が付着してしまった演目でもありました。

今年の京都エクスペリメントでこれまで見た4演目中、これと、先週のチョイ・カファイと、2演目で聞いた「般若心経」。確率高くないですか?(母数4で確率て・・なんてツッコミはなしね)。
実は、この10月中の或る日(特定するのはやめておく)はわたしの父の三回忌で・・。わたしと妹との二人で(きょうだいは二人きり)、母も高齢であることだし、何も特別なことはやらないでおこうね、と決めたのでした。
なんだか、父がそれに抗議して、もっとドンチャカ派手なことをやってくれ!と要求しているようであるわ・・(いやホントのとこ、それを確信したのは、この月末に実家近くのライブハウスにお気に入りのさるバンドが出演することを聞いたときでしたが・・)。
もしちゃんと法事をやったとして、お坊さん招んであげてもらっても絶対(毎回)これは必ずやる般若心経の(さまざまなお経のあるなかで、なんで般若心経が最もポピュラー?とも思いません?)、先週は初音ミク版、今週は蛸入道の嘘寺院のいろんなアレンジ版で聴きながら、きっと父の霊がこの場に参加して愉しんでこれを聞いていることだろうなあと(不条理にも)確信したことでありました。
まぁ・・父の二度めの祥月、せいぜいドンチャカを楽しみたいと思います。