稍ゝおも

ややおもしろく、ややおもたく、jajaのJa,Ja,おもうこと

『三島由紀夫対東大全共闘』など

どの記事のどこの記述がお気に召したのか(あるいは召さなかったのか?)わからないけど、このささやかなブログにもその筋の読者がおいでになったらしく、「そんなに日本が嫌いなら大陸か半島に行けばいいのに」みたいな型通りのコメントがついていたので、即刻消去しました。
それにしても・・と疑問二つ。
どうして現政権(安倍政権に限る?あるいは自民党政権?もしいま例えば立憲民主党が政権とってたとしても同じ態度?)をちょっと批判するだけで「反日」になるのか? お国の言うことにはいつだって黙って粛々と従うべきで、少しでも批判すると非国民になるわけですか? で、反日=非国民=親韓or親中国なの? まずはその短絡思考がわからないのですが。
二つめ。いまの新型コロナ危機にあっては尚更政権批判などすべきではない・国民一致団結して事に当たるべしみたいにいう人たちは上記コアな層以外にもいそうなんですが、そういうふうに言う人たちは、ホントにアベノマスク2枚をありがたくいただくだけで満足なの?日本の補償は世界で一番手厚いとか信じてるわけ?このままでは十分な保障を得られない人がすごく多くなると思うけど、それでもみなさん十分にやっていける人たちばっかりなわけ? 随分と裕福でいらっしゃるんですね。わたしは無理です。だからブータれてるんですが・・。
で、そのことはわたしひとりのことではなく、わたしの大好きな映画館であったりライブハウスであったりギャラリーであったり、個々のアーティストの方々であったり、あるいは近所の小さな飲食店の数々であったりが、存亡の危機に立たされているわけですが、そういうのはどうでもいいわけ? いま安倍支持(もしくは安倍の新型コロナ対策支持)してる人たちは、映画も音楽もアートも必要ないし、外食は大手チェーンとコンビニだけで事足りるわけ? 随分と貧しい生活してらっしゃるんですね。わたしは無理なんですけど・・。
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こないだ、こうなってくると右翼/左翼の区別はあまり意味ないなと書いたのは、根っこのところで両者根強い「愛国」があるからなんですね。ロボット(今風に言うとAI?)に代表されるテクノロジーに対抗してフランスの価値観そのものでもある「自由」を対置するベルナノスのテキストも。あるいは全学連から全共闘に至るまでアメリカの専横(とそれに追従する日本政府)を激しく批判した若者たちも。
三島由紀夫対東大全共闘』をあらためて見ていて、その真摯なやりとりに打たれつつ、動機は一致している(愛国!両者とも日本を愛しているからこそこうあって欲しいと思っている)のに、それぞれの思想と行動を律する定言命令が決定的に異なっていて、決して核心のところで折り合うことがないのに絶望みたいなやるせなさを感じる。
わたし自身は全共闘より後の世代に生まれて、全共闘のお兄さまお姉さまに憧れ続けた(あるいは上の世代からダメダメと言われ続けた)世代。全国の大学で学生運動が下火になるなか、わたしが通った大学にはたまたま残っていて、同級生のなかにはそこに加わって暴力学生やった人たちもいっぱいいたけど、わたしは、ゴメン!すんません!当時はめちゃチャラチャラした軽〜い女子学生で、バリケード封鎖した学内に暴力学生とお友達のよしみで入れてもらって、彼らが占拠した学長室で仲良く鍋を囲んで路上闘争の武勇譚に耳を傾けたのが唯一の思い出だったりするわけですが、たまたま所属してた学部ではいわゆる赤ヘルノンセクトラジカルが強かったので、わたしもたまたまそのシンパ(つまりは代々木=民青嫌い)ということになってたけど、完璧にその思想に共鳴してたわけではなく、共鳴する部分が多かったけど自分で棒振って闘う気はなかった。(というか、わたしはどんな場であれ、みんなでシュプレヒコールというか、みんなに合わせて大きな声をあげるってのができないのよ。「〇〇〇ふんさーい!」であれ「天皇陛下バンザーイ!」であれ・・)。(以上、自己弁護に満ち満ちた気恥ずかしい醜悪な青春お手柄話すんません!)
それはともあれ、何回かのスト(でも考えてみれば学生の「ストライキ」って一体なんなんでしょうね?)を経て、これ以上のストはもうないかなという時点で、彼ら(運動の先頭に立っていた上級生たち)と話していてつくづく感じたのが、この人たちはホントに母校を愛しているんだなぁ・・ということ。学費値上げ反対闘争であれ竹本処分反対闘争であれ、何もかも愛校精神から出てるなぁ・・と。それをつきつめれば自分の国がこうあって欲しいという愛国精神だろう。
三島も東大全共闘も(そして今の左派も右派も?)今の日本はこれではいかん、愛する日本はこうあって欲しいというところにベースがあって、三島の場合はそこに「天皇」という存在が措定され、昭和天皇本人への屈折した愛着と反発もまた含まれるのだけど、そこが東大全共闘とは完全に折り合わない部分で、それまでものすごく真摯な思想論争を繰り広げてきた芥政彦には一言「退屈」と切り捨てられてしまう。そして三島はその場で自分が予言したとおり、非合法の暴力によって革命を志し、切腹して果てる。ストローブの引用したベルナノスのテキストも言うとおり、革命revolutionは暴力と破壊を伴わずにはおれず、体制を保持したままでの進化évolutionの先には無い。ユナボマーの被害者たちは口々に言う。彼の思想はわかる、主張は理解できる、でも、だとして、どうして殺人が必要なの?罪もない人を殺すの?(それは赤い旅団とかバーダー=マインホフとか日本赤軍とか狼とかに向けられた問いでもあったろう)。 アントニオ・ネグリマイケル・ハートマルチチュード論を初めて知ったとき、ああ、これこそ左翼の新しい闘いのありかただと感激したものだったけど、その後「ISってマルチチュードだよね」と言う人がいて、ああそのとおりだと思い、なんか絶望的な気分にもなった。(でも、この新型コロナ禍を契機に、それこそ新たなマルチチュードのかたちは出てこないかな?)
あと、これは友人の知人であるひとりの一般人(フランス人)が、新型コロナのせいでロックダウンという事態に陥る前(みなさん覚えてますか?)フランスで長く執拗に続いていたゼネストについて言ったことだけど、言い得ていると思ったのは、そのフランスのゼネストにせよ香港の運動にせよ、民衆が頑張って声をあげるお国柄・土地柄というのは、そうやって声をあげて何らかの成果を勝ち取ってきた国であると。(その証拠にフランスと隣り合わせるイギリスではサッチャー政権の時に民衆運動が歴史的な屈辱的敗北を喫しそれ以来目立った運動が起こっていないと。)日本は多分、全学連から全共闘に至る学生運動が悲惨な敗走・自滅を晒してしまったことがトラウマになったか、それを目にした民衆にも「お上に刃向かったところでロクなことにはならない」という諦めが染み付いてしまったと。だから消費税にせよ、モリカケ桜にせよ、(たぶん新型コロナにせよ)、お上に反する声が多々あっても捗々しい運動にはつながらない。というのですが・・。
ああ諦めてちゃいかん、諦めたら、このままでは、お国に殺されてしまう(COVID-19に感染するにせよ、生活苦にせよ)という切羽詰まったところから、令和の一揆が起こらんかな、と思う今日この頃です。(ってやっぱり人任せ?風任せ?)
ああそういえば・・もひとつ。
『ワンダーウォール 劇場版』はあきませんでしたわ〜。渡辺あやの脚本が「ぬるい!ぬる過ぎる!」とツッコみながら見ていた。(若葉竜也のドレッドだけ良かったけど。)東大の駒場寮が強制執行で潰されたのはいつでしたっけ?その存続運動に関わっていた人がたまたまインターネットを始めた当初のネット友達の中にいた。その頃から吉田寮もこのままでは潰されるという危機感があって、ずっとハラハラしながら見守り続けている身としては・・。(わたしの学生時代に一人だけ同級生で吉田寮住まいの人がいました。あと卒業後もそこに居座ってた知人もいましたが。)滝川事件であれ竹本処分問題であれ或いは安田講堂はじめとする全国の学生運動の攻防戦であれ、また吉田寮存続運動であれ、国家権力に対峙する大学自治また学生自治の話なんだよね。そこに「自由」としっかり結びついた愛校精神があるわけで・・。