稍ゝおも

ややおもしろく、ややおもたく、jajaのJa,Ja,おもうこと

地は久しく天は長し

朝からひと仕事終えた梅田から(自宅から梅田までももちろん徒歩)まず渡辺橋まで出て堂島川沿いに中之島を西の端まで歩く(川沿いを歩くのがやっぱり好き)。そこから安治川と木津川(はるか上流で消えた名前が河口近くで復活するのも面白い)に挟まれた川口(旧川口居留区)を突っきり、松島新地(ふだんこっち側は通らない。昼間から開いてた店も数軒あったな。飛田でも思うのだけどお姉さんたちホントに綺麗です。)を抜けて、再開なって初のシネ・ヌーヴォまで。意外と時間も歩数もかからなかった。受付に山崎さんの姿を認めてなんか涙が出そうになったわ・・。
今日明日つかってフレディ・M・ムーラーFredi M. Murerの山・三部作(マウンテン・トリロジー)を見る。随分昔にぜんぶ見ているけどね・・今回はやっぱり観よ。それと見逃していた(というか当初はパスしよかなと思ってた。わたしって日本のアニメにわりと冷淡なの。今回のは信頼できる筋から熱烈お勧めと聞いたので)『音楽』も。
で『音楽』もなるほどよかったのだが、今夜は前に下書きしてた以下だけ投稿しておきます。
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『精神0』想田和弘(2020)
「仮設の映画館」で見て、また再開なった七藝で観た。なんだろう、この優しさと思いやりに包まれた空間は・・。山本先生の「ゼロに身を置く」は木村敏さん言うところの「祭りの前」でも「祭りの後」でもない「ゼロの時間」でもあり、あれこれと欲に囚われる心を束の間解放することでもあり・・「祭りの前」も「祭りの後」も欲得もそれが人間を人間でしかないものにしている要素であり(たぶんネコの時間はゼロ±ほんのわずかしかないと思う)一人ひとりが「大事にせんといかん」ものなんだけど、それを一日一回でも、あるいは一週間に一回でも、ゼロにしてみる・・。その簡潔にして凄い哲学を誰にでもわかるように言う、その「先生」を、患者の方が逆に気遣う、上下のないフラットな目線。患者の方から学ばせてもらったという先生の謙虚さ。しかしその先生は家事となるとからきしダメである。これまで奥さんに頼りきってたのが丸わかり。その芳子さんも認知症になってすら、基本の人格は変わらないのね。頭が良くて勘が冴えていつもくるくる働いてた人なんだろう。だからじっとしてられない。もう、いいからおとなしく座っときと言いたくなる場面でも何かやってないと気が済まない。その手の仕草やその表情や・・予告篇にあった場面で「僕の手を持って」とか言いつつさっさと歩いていく山本先生に「両手ふさがっとるやん!」とツッコミたくなるのだが、そのあとようやく気づいて振り返って帰ってきて、ちゃんと手を掴むまでの仕草のやりとり・・危なっかしい墓地での一歩一歩・・一つ一つの仕草やことばのやりとりが、人生の一刻一刻の貴重な時間である。想田監督の観察映画シリーズは全部見ている。のだけど、全部いいな。「観察」は「判断」をしない。判断はしないんだけど、どうしても判断している部分がある。できるだけ関与しないんだけど、やっぱりどうしても「関与」している部分がある。そのあわいに滲み出てくるもの人生のある瞬間がまた貴重である。
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『在りし日の歌』地久天長 So Long, My Son (2019) 王小帥 ワン・シャオシュアイ

地久天长 (电影) - 维基百科,自由的百科全书

邦題は中原中也の詩集のタイトルのまるパクリだけど、中也の「在りし」も亡くなった息子のことを言ってるのでまあ間違いではないのだろう。けど原題の壮大さには敵わないな。そいえば『天長地久』というタイトルの香港映画、アンディ・ラウの主演でありましたっけ?アアロン・クォックのも? 地は久しく天は長し。中国語(漢字)っていいなぁ・・。
二組の夫婦とその息子を軸に、一人の息子が喪われ、その代わりになるはずだった二人めもあらかじめ失われ、そのあとに三人めの代わりの子が差し出され・・「親」と「息子」と「友」のかかわり、反復と差異、欲望の交換と代償と・・そのありようが、主人公らとそれを取り巻くすべての人々、また中国の「北」と「南」と「一人っ子」をめぐる現代史の大きな時間の流れとともに雄弁な映像で語られる。見事な作品でした。字幕でシンシンとカタカナで呼ばれるとわからないけど、物語の真ん中を貫く負の中心たる喪われた息子の名前は「星」であることが墓標からわかる。『精神0』で最後の肝心なところで(間抜けにも)なかった火が浄化する時間の重み・・。すべての「親」と「子」と「友」がいまどきのIT技術も動員して勢揃いするラストは、もう号泣ものでしたね。