稍ゝおも

ややおもしろく、ややおもたく、jajaのJa,Ja,おもうこと

仁義なき力の場

昨日も2本。『罪と女王』『衝動ー世界で唯一のダンサオーラ』。後者は、短躯で小肥りで「ダンサー体型ではない」ロシオ・モリーナの弾けるようなパフォーマンスにただただ目を奪われる。『ラ・チャナ』という記録映画もあってその中にもモリーナは出てたけど、そのラ・チャナとの共演も。ああ、フラメンコっていいな!

前者、予告篇みたときから「ああ、これって見た後いやな気分になる映画やろな」と思い、やめとこかなと思ってたが、評判高いのでやっぱり見てしまった。やっぱり後味悪い映画やった・・。最近ニュースになった40歳と14歳がどうやったかは知らんけど、一緒に気持ち良い遊びをしているうちは対等な関係だと思ってるかもしれないが、いざ問題が起きると「おとな」と「こども」の力の差があらわになる。おとなはあらゆる卑劣な手を使って保身に走り、こどもを踏みにじるのだ・・。そして、おぞましさから目を背け結果的に黙認した周囲も、薄々真実に気づいていながら「自分に都合の良い」真実の方を信じることにした者も・・。「こども」たちがみんな美しくて可愛らしいのもますます悲しくていじらしい・・。

映画業界に限らず、あらゆる人間関係の場で「力」が作用する。カップルであれ家族であれ友だち関係であれ、力で支配したりされたり、その均衡で成り立っているのはなんとかならんものか・・。すごくうまくいっているように見える恋人同士でさえ、どちらかがどちらかを支配・制御していることがすごく多い。長いこと配偶者にモラハラされてて自分で気づかないでいたという人も、ごく身近にいた。わたしは昔っからいじめられっ子の立場に立つことが多かったけど、それだけに、いざ自分が主導権取れる立場になったときに、やっぱり他者を支配したり自分の思う通りに操ったりしたくなる欲望に気づかされる。気づく前に、やってしまうことも、思わぬ言動に出てしまったりすることもある。ほんまに、なんとかならんもんかね?

自粛明けのわりと早い時期に見た『ルース・エドガー』と『許された子どもたち』も、そんな仁義なき力関係を描く。これもきっと予告篇見たときからぜったい嫌な気分になるやつだ、とは思ったけど、後者の内藤瑛亮監督、『先生を流産させる会』(←もう、タイトルからして非道いよね)の出来が鮮やかすぎて、その監督が長年温めてきてようやく製作に漕ぎつけた映画だというので、ぜったい観に来ようと思ってた。いじめ少年がいじめられ少年を殺してしまった、そういう事件は現実にもあったわけだけど、そのとき加害者側はどうなるのか?・・の話。友だち(仲間)関係、家族関係、そしてそのなかの一人と一人が向き合ったときの関係、そのいちいちの感情や具体的な言動がみごとに描かれる。映画の語りもすごく説得力ある。特に主人公の男の子とその母親がものすごかったな。

そういう「力」の制圧する場を救うのは「愛」だとか腑抜けたことがよく言われたりするのだが、『ルース・エドガー』にせよ「愛」とか「信頼」とかが人質に取られたり、交渉の賭け金にされたりした瞬間から、それは本物の(つまりは無償の)「愛」ではなくなる。ルース・エドガーのタイトル・ロールのこどもはLuce(光)という美しい西洋起源の名前を与えられた瞬間から、不均衡な力の場にいることを思い知らされ、その怨みを逆手にとって巧妙に力を操作する術を学んでいく。『許された子どもたち』の主人公が、雁字搦めにされて罪と向き合うことも自分を見つめ直すこともできず出口を見出せずにいるのと対照的に、こちらの主人公は十分自覚的に、いわゆる(偽物の)「愛」とか「信頼」とかを手玉にとっていくのだ。どちらの作品でも主人公のごく身近に主人公を受け止めるような役割の女の子が現れるわけだけど、『許された〜』のその女の子の犠牲者の姿(牛乳をぶっかけられる)に対して『ルース〜』の韓国系の女の子の、社会的には犠牲者として振る舞いながら、ルースといるときの動物のように光る目がものすごかったな・・。

こんなふうに 陰湿な「力」ばかりが横行する場に生きていると、『仁義なき戦い』とか具体的にドンパチやって血がばんばか流れる世界の方が、いっそカタルシスになって見終わったときにスッとするってのがあるんでしょうね。深作欣二の特集、京都でやるらしいですよ。

『罪と女王』Dronningen

Dronningen (film) - Wikipedia, den frie encyklopædi

『衝動ー世界で唯一のダンサオーラ』Impulso

Impulso–Film - Rocío Molina

『ルース・エドガー』Luce

Luce (film) - Wikipedia

『許された子どもたち』内藤瑛亮

映画『許された子どもたち』オフィシャルホームページ