稍ゝおも

ややおもしろく、ややおもたく、jajaのJa,Ja,おもうこと

ことば・・とか

ちなみにイタリア語でマスクは「マスケリーナ」。(あえてカタカナで書くけど)。英語の「マスク」(フランス語でも「マスク」ドイツ語で「マスケ」)にあたるイタリア語(とスペイン語の)「マスケラ」はヴェネツィアのカーニバルなどでかぶるあの大仰な仮面(顔の全面を覆う)を指すので、顔面の半分しか覆わないマスクは、指小辞の「イーナ」をつけて「マスケリーナ」になる。アンジェラがアンジェリーナになるたぐいね。可愛いやんけ!

ある日のレッスンで「うんざりする」みたいな表現を教えてもらい、先生「例文作って」。わたし「わたしはマスケリーナにうんざりだ」。先生「わたしはマスケリーナをつけるのにうんざりだ」と言い直してから「でも『マスケリーナにうんざりだ』でも構わないよ」と言う。ほんまに、うんざりですわ〜!

しかし感染再拡大なのか第二波なのか、東京の、そして大阪も、数値が相当ヤバいことになってると思うのだが、以前にその数値を叩き出してたときの緊迫感が、行政にも民にもないのはどうなん!? あかんのちゃん!?

・・と思いつつ、映画館も飲み会もジムもライブもすっかり(自分に)解禁、もっと行きたい!という勢いのわたしであった。誰か(科学者)の説で、新型コロナウィルスに曝されてから重症化するまでを何段階かで整理してあって、うろ覚えではあるが、仮説の数値を出していらっしゃった。その仮説によれば、日本人の30〜45%は既にウィルスに曝されているが、98%は自然免疫で事なきを得ている。(ただし自然免疫なんで獲得免疫はできてなく、したがって抗体はできてない)。あとの2%は獲得免疫ができるまでになるが、その中でも重症化するのはごくわずか。その各段階で、日本人(アジア人)は、酷い目に遭ったヨーロッパ人に比べて、次の段階に移る割合が低いのだという。感染再拡大というが、そのなかで重症化している人、死者はどれぐらいの割合でいるのか?・・とか考えると、わたしはきっと感染したことあるけど自然免疫だか獲得免疫だかで気づかずにここまで来たクチで、だとすれば、これからも、ウィルスの性質を知って最低限のことに気を遣えば、自分がCOVID-19で死んだり、他人に移したりのリスクはごくごく低いかな?とも思われる。

まー、だとしても、外出先でずっとマスケリーナにはうんざりだけど。

ヨーロッパ語は語源が共通してたりするので似たとこ共通したとこあって、なおかつ微妙に違ってるので面白いですね。ドイツ語の「Angst」がそのままタイトルになった『アングスト』は、英語、フランス語タイトルはそれぞれ違ってたと思う。ところが、同じ語源のスペイン語「angustia」が、たまたまその翌日に見に行った『ラ・ヨローナ 彷徨う女』のエンドクレジットに流れる歌の中で印象的に使われていた。

『アングスト』の怪作ぶりにはもう、脱帽としか言いようがない、主人公のまさしくAngstが、意識の流れではないけど、その狂った理屈のそのまんまの流れで、キャメラワークやカットつなぎ(コンティニュイティ)になり、観ているこっちにまで伝染してくる。

『ラ・ヨローナ 彷徨う女』も、今回はグアテマラに舞台を移し、やはり虐げられる(虐げられた)女の怨みが、虐げる階級の女に侵入し、いろんなひとを狂わせていくありようが、すごく面白かった。

無垢だから?こどもや犬が無事なのが救い?いや、しかしほんまにこれ無事と言えるのか・・?

ところで韓国語は、ハングルがようよう読めるようになった程度の段階で学習ストップしてるので、『マルモイ ことばあつめ』の元・文盲(「盲」が差別語にあたるからか?「非識字者」となってたけど)の主人公の、字の読めるようになった喜びと共に、街中の看板などのハングルを声に出してみては、読めた!と喜ぶレベルなのだが、その主人公は読み方わかればすぐ意味もわかるけど、わたしは読みかたわかったところで意味わかんないもんね。しかも、たとえばひらがなの読み方覚えたての幼児が一つ一つの字母を拾い読みする程度の速度でしか読めないので、エンドクレジットとかとてもついていけん・・。これはよっぽど集中して勉強しないと無理かなぁ・・。とはいえ、日本語の「かばん」にあたる言葉は、韓国語でも「カバン」と発音するのだと知り、え、これって語源はなんだろ?とか思う程度には聞き取れるのでした。むしろ話し聞きの方から入る方が韓国語は身に付くとも聞く。若い人はすぐ上達するってよ。

マルモイ ことばあつめ、いろいろ不満はあっても、やっぱり見とかんといかんかなと思う。そういえば、韓国語あんまり知らなかった頃にも、韓国語のニュースにやたらめったら「ウリナラ」という言葉が聞こえてくるなとは気づいてた。ことばは国民の精神も映すのである。

『アングスト 不安』(1983) 監督:ジェラルド・カーグル

Angst (1983) – Wikipedia

『ラ・ヨローナ 彷徨う女』(2019)  監督:ハイロ・ブスタマンテ 

en.wikipedia.org

『マルモイ ことばあつめ』(2019) 監督:オム・ユナ  出演:ユ・ヘジン、ユン・ゲサン

ko.wikipedia.org

美術館通い

なぜか美術館通いが続く。
一昨日は中之島香雪美術館。もとの香雪美術館は知っててここに分館ができたのも知ってたけど、ちょうどコロナ禍のせいで当時持ってた招待券を無駄にしてしまったことがあり、今回初めて訪れることになる。コレクションの中から茶器や絵画の名品展。わたしは茶の湯の嗜みがなく、その文化にまつわる固有名詞についても不案内なので、なにが貴重で何がそうでないかはとんとわからないのだけど、それぞれの「もの」のたたずまいだけは、わかるような気がする。佳い展示でした。それと、ここのコレクションのもとになった朝日新聞社主・村山龍平について。ちょうど七藝でタゴールの歌についてのちょっと良い映画をやっているが(『タゴールソング』)そのタゴールが来日したとき、村山邸に招かれてお茶会をやったのね。よく考えるとそう驚くことでもないかもしれないけど、なんだかちょっと感慨がありました。
そして、昨日は金沢まで。既に予約してあったので、大雨大風でサンダーバードが止まったらどうしよう?と心配したけど、北陸路は大したことがなかったようで、無事に行けてよかった。金沢21世紀美術館内藤礼「うつしあう創造」展。ものすごく繊細な作品を作る作家なので、よくよく注意して見ないと作品の存在まで見落とすかもしれない展示だったけど、白を基調にした建物やお部屋のなかで、庭を吹き抜ける風、雲の多い空から漏れる日光、部屋の中にいる複数の人々の気配や、わたし自身の動き・息、電熱器で温められたわずかな空気の動き、滴る水、それぞれを敏感に受け止める展示がすごく良かった。ちょうど夕方の時間帯に行ったおかげで、自然光の中での展示と、夕方5時以降、照明が変わり小さな太陽に灯がついてからの展示と、二度味わえておトクでした。「5時から照明が変わりますよ」と教えてくれたのは、お部屋お部屋の監視員をしているスタッフの方。訪れるたびに思うのだけど、ここのスタッフの方々感じいいな。なんだかいかにも地元の善意が溢れている感じです。今回の展示のハイライトは、作家がよく作る「ひと」のちいさな彫刻を、変形の大きなテーブルに並べた作品。それぞれのちいさな「ひと」が、それこそソーシャル・ディスタンスを思わせる距離を取り、思い思いの方向を向いてたたずんでいる。それぞれのからだの表面まるごとで、自分の位置から遠かったり近かったり、いろんな距離にいるほかの「ひと」の生きる気配を感じ取りながら、関わりあいながら、生きている、この世界のありようを見せてくれているようで、それが作家の世界像を表現しているようで、ちょうどいまの時期に見るべき展示ではないかと思わせました。
内藤礼さん。個々の作品はいろんなところで見てきたけど、なんといっても圧倒されたのは、瀬戸内の豊島にある「母型」という作品。がさつで粗忽なわたしは、あちこちから湧き出て思い思いの方向に流れ、それぞれの水系を作っていく水を踏んづけたりしてしまうのけど、その世界をまた体験しに何度でも行きたいと思う。ここ数日の大雨禍、いくつもの河川が氾濫してたくさんの方々が被災している。本当にお気の毒です。気候変動もあってか毎年毎年どこかで大水が出るようになったこの国で、きっともっとふだんから水との関わりあいを見直して気をつけていかないといけないんだろうなあとも思う。
内藤礼さんの作品に関してもう一つ言うと、最近よく目にするHSP(Highly Sensitive Person)というターム。心理学や精神分析やらの世界でようもまあ次々といろんなタームを発明するもんだと思うけど、これで救われる人がいるのならまあいいんじゃないかと思う。自分の「生きづらさ」に、なにか名前を付けてもらったわけだから。内藤礼さんの世界なんて、まるきりこれだもんな。HSPという概念を知ったのは、知人のひとりからだったけど、その彼女は相当高レベルでこの症状にあたるらしい。とはいえ、いろんな解説本などを見ると、わたし自身もその知人ほどではないけれど、中程度のHSPにあたるかもしれない? でもある本にある説によれば5人に一人がそれなんだそうで、だったらわたしも普通にそれやん! それどころか、わたしの親しい知人友人見渡してみて、それじゃない人(センシティブではない人)の方が少ないぐらいなんちゃん?と思うと、これってなんなん?とも思う。とはいえ、まあ中程度のSensitive Personとしてのわたしの感性からも、内藤礼さんの世界はほんとうに快くて、ホッと安心できて、世界がこれほど繊細であってくれれば(というかこれほどの繊細な感性に敬意を払ってくれれば)と、思います。
そして今日は、天王寺大阪市立美術館「フランス絵画の精華」展。これはもともと行く予定してなかったけど会期が延びたし、まあ見てみようかなと。17世紀から19世紀まで「フランス絵画」と言ったときのフランス絵画の王道の流れが辿れて、充実した展示でした。特にデッサンが良かったな。このあたりの画家たち、なにかその名前と様式だけで見てしまいがちだけど、それぞれの画家らのそれぞれの個性や資質がデッサンにふと出る感じがして思いがけなく良かったです。
あと、伊丹とか姫路とか京都とか行きたい特集展いっぱい。今月中に行けるかな?
   *
それにしても新型コロナ、東京でまた200人超えだという。大阪でも30人超え。首都圏と近畿圏で緊急事態宣言また必要なんちゃん? いや、しかし、自粛自粛と喧しく言ってたわりにステイホームの効果が実は怪しいとも聞く。(素直に蟄居生活してたのに・・)。「夜の街」とはいかにも差別的な呼ばわりかたではあるが、しかしやっぱり難しいだろうなぁとは思う。映画館とか美術館とか基本的に一人一人黙って鑑賞してるだけとはちがって、近接しておしゃべりしたりすることが商売の中心になるだろうから・・。今はやたらめったら警戒が過ぎるだろうという場所と、もっと警戒した方がええんちゃん?てところが混在してるので、それをなんとかしないといけないのではないかと思う。思い切ってもっと補償を出して、やっぱり閉めるところは閉めた方が・・。とりあえず首都圏と近畿圏の人たちはよその地域に行ったりしない方がええんちゃう? そういうときに政府はGoToキャンペーンとか訳のわからないことし始めておるが・・。世界的にもアメリカとかブラジルとかあまりに警戒しなさ過ぎでまだまだ拡大続きそうな地域もあるし・・。ヨーロッパはどうする?最初の頃のように厳しいロックダウンはやらないにせよ、また二次感染に備えて部分的にロックダウンをするんだろうか・・? 何よりもこの鬱陶しいマスク生活をいつまで続けないといけないのか? このコロナ禍が、収束したといえるのはいつになるのかわからないけど、ほんとに最後の最後までどうなることやらわからない。

ハニーランド

半月月見酒。空気が湿気てるせいか?月の色が心なしか黄色い。これからまた十八夜の居待月頃までベランダでの月見酒好適夜が続く。梅雨だから見られない夜もあろうけど・・精々愉しもう。しかし、いつまで続く?ひとり月見酒よ。

(日付が変わってしまったのでいちんちずつずれるけど)一昨日、昨日と、ひさびさ川端散歩に出かけた。一昨日は大川端を、昨日は淀川沿いを歩く。StayHome期間中には毎日のように出かけた長足散歩だが、自粛解除になり、仕事先での仕事もそれなりに戻ってきて、都心に出かけついでに映画見て帰ってくるという日常が戻るにつれ、サボりがちになった。しばらく遠ざかっているうちに夏の草花のいくつかを見逃してしまったようで、梔子(くちなし)など一重も八重も大好きなのに、もう盛りを過ぎてしまっている・・。まだ香りは高いけれどね。一昨日は大きな蓮の蕾がいくつも並んでる池を見かけたので、この花咲く頃は見逃さないようにしよう。

それにしても、朝夕の比較的涼しい時間帯を選んでさえ、この蒸し暑い時季の散歩は辛い。6月からジム(スポーツクラブ)は再開していたのだが、受付のバイトをしている友人によると、更衣室がやばい(更衣しながらみんな至近距離でおしゃべりする)というので、6月いっぱいはまだ休会にしていた。7月からはいよいよ復帰かな? 言うても、日本の第二波は50人とか60人とかそこらのレベル(東京アラート出さんかい!)、フランスとかドイツとかの1000人単位、アメリカの万単位とは桁がちがうもんなぁ・・。抗体の保有率も思ったより低い。いや、だからこそ、警戒しなきゃならないんだという声も聞くけれど・・。経済がまわりはじめ、みんな自粛疲れしているこのときに、世界的にはまだまだ感染者が増えているんだから。

映画は『ハニーランド』がものすごかった。これ、ほんまにドキュメンタリー? 展開がドラマチック過ぎるんですけど・・。それに映像の美しさがただごとではない・・マケドニアのごつごつした風土と、蜂の刺す痛みと蜜の甘さと、天然の蜂蜜の価値と持続可能性とが、ドラマと映像の両方に大きく関わってくる。そこに置き去りにされる主人公の孤独が身につまされる、以上にじんじん沁みてくる・・。

マケドニアの山の中で、ただ淡々と営々と自然を相手に生きていくだけなら、独身女のまま年老いても、ひとりの気力・体力が続く限り生きていけるのかもしれない。髪を染めて少しおしゃれもして。愛されることなどなくても。しかし母がいる。毎日顔つきあわせてると些細なことで苛立ち諍いになる。(だけどお互いなしでは生きられない)。そして隣家がやってくる。家畜の扱い、家族の扱いに殺伐としたものがあり、不穏な予感しかしないのだが。そして大人数のきょうだいの中に必ず一人はいるものか、聡明で優しい子どもが一人だけいるのだが。こんななかに欲得ずくがしのびより、引っ掻くだけ引っ掻き回した末に・・。けっきょく誰からも愛されない(猫さえあまり懐いていないようにみえる)無骨でぶきっちょな彼女が一人取り残され、しかし哀れには見えない、ひ弱ではないだけに、余計に孤独が沁みるのだ。このまんま生きるだけ生きていくしかない?

え、これって誰のこと?

『ハニーランド 永遠の谷』リューボ・ステファノフ、タマラ・コテフスカ 

en.wikipedia.org

『その手に触れるまで』と『ヴィニルと烏』

夏の持ち物。晴雨兼用傘、扇子、ショールまたはカーディガン、水筒、ハンカチまたはタオル、ティッシュ、今年はこれにマスクが加わり、あと、いつもの財布だのカードケースだのスマホだの鍵だの眼鏡だの筆記用具だのイヤホンまたはヘッドホンだの本だの、必要に応じてパソコンとかノートとか・・出先によってはいくつか省けるものもあるしもちろん加わるものもある。
で、いつも何かかにか忘れて出る。エレベータの中とか行きしの道で気づいて、あ、戻るのもう面倒と思ってそのまま出かけたり。むしろ完璧な状態で出かける方が少ないのではないか・・。
そして、出先や帰途で何かを忘れてきたり・・。傘とか扇子とかハンカチとかでは、自分が大事にしてるもの(もしくは入手価格が比較的高かったもの)に限って、なくすことが多いんだよなぁ・・。わたしはわりとしつこく、例えば電車の中とか映画館とかにものを置き忘れたときなんかも取りに行ったりするのだが、良いものの場合、置き忘れた場所とか時間とかが記憶に残っていてさえ、出てこなかったことがある。つまり、誰かが取っていくのであろう。ま、その誰かのところで無駄なく活用されていれば良しとする。(しかしケチのわたしは悔しい)。
あ、そういえばわたしのところに届いたアベノマスク(事務所にも届いてたから計4枚)、友人の家に届いたやつも合わせて、活用してくださるという団体に送った。なんだか不用品を(しかも衛生的に問題ありそうな代物を)送りつけたようで気が引けるけど、もし活用してくださるというならそれでいいだろう。
  *
新型コロナ禍、世界的にはまだまだどんどん感染者も死者の数も増えつつあるのに、第一波が過ぎたと見做された国々では自粛解除の動きが広まっている。まだ早過ぎる!と危惧する声も聞こえるが、それなりの犠牲は伴いつつも経済は少しはまわしていく方がいいのか・・歴史的にどう判断が下されるのかわからない。
それにしても日本の施策は酷過ぎるな。東京でまた50人越えしてるというのに、あの東京アラートやらはどこへ行ったんだ? それに専門家会議、当事者にまるっきり知らされず勝手に解散させられたとか。なんなんだこのやり口は? 維新をいただく大阪も、首長がテレビで顔売ってる(=何にもやってない)スキに、10万円給付は遅れるわ、づぼらやみたいな地域の名店が廃業していくわ・・(ニュースにならない店がいっぱい潰れてる。近所でも)。
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アップリンク問題は根が深いと思う。以前には書かなかったが(後出しジャンケンぽいけど)浅井さんからの謝罪メッセージが出たとき、すぐに思ったのは「早過ぎる」ということだった。なんだか、面倒な問題はさっさと片付けてしまって、早く自分本来のペースに戻りたい。そのためには下手に抵抗せず全面降伏の形を取っといた方が得策・・みたいな、利己的な意図が透けて見えたから・・。ただ、そんなふうに他人の意図を勘ぐるのも良くないかなと思ったし、そのあと出てきた具体策を評価している向きも(同じ業界の人で)いたので、その時は書かなかった。

原告側からあらためて声明が出て、ああやっぱり・・と思ったけどね。このたびは原告側を全面的に支持しますわ。

自分に非はない(正しい)と(どこかで)思ってる人は、口先だけで反省とか謝罪とかはいくらでもするのよね。一刻も早く告発を免れたい(自分にとって不利な状況を脱したい)という利己的な動機から。もちろん本当に反省しているわけでは毛頭ないから、自分が好きにしていい局面に戻れば、やっぱりおんなじことしてしまう。DVやる人ってほぼこれ。いじめやDVの加害者は、被害者にも悪いところがあって自分はむしろ被害者だと思ってる人がすごく多いらしいし・・。人間って「変わる」ことが本当にむずかしい。特に自分の側に正義があると思い込んでる人間は・・。(わたし自身だってそうだけど。)

ダルデンヌ兄弟の新作『その手に触れるまで』で、自分に圧倒的な正義があると思い込んでいる少年もそうで、一刻も早く義を貫くための行動に出たいから、口先だけで周囲を騙すなんてこと平気でやる。(師のやりかたを正確になぞっているのだ。)予告篇ではこれが救いになるのではないかと思わせた、少女との思いがけない邂逅(この少女もすごい!)で動揺しまくる少年の表情が素晴らしいのだが、やっぱりダルデンヌはぬるい展開は用意していない。自らに義があると信じる少年はなかなか変わることはできない・・。邦題が匂わせる「救い」が本当に訪れたものかどうかは、わからない・・。

『その手に触れるまで』監督:ジャン=ピエール・ダルデンヌリュック・ダルデンヌ 

Le Jeune Ahmed — Wikipédia

アップリンクは、やっぱり浅井さんがトップを退かなければ収まらないと思う。だけど、浅井さんのレガシーというか、ここまでやってきたノウハウとか映画への鑑識眼とかを活かすかたちで、アップリンク自体は続いて欲しいなと思う。野次馬が無責任に思うことでありますけどね。

実はこないだも行ってきたのでした。アップリンク京都。大阪で見逃したものがあったもんで。で、これもまたいじめを主題にしていたところが、なんとも皮肉すぎますが・・。

『ヴィニルと烏』監督・主演 横田光亮 

いじめは残酷であからさまな強者による弱者の「つつき」(集団にある「つつきの順序」)にほかならないんだけど、だからって弱者がそれに対抗するために「強くなる」ことが有効なのか? そうはいかないんだよね。冴えざえとした映像の美しさが、その残酷さをきわだてる秀作でした。

それにしても『許された子どもたち』もそうなんだけど、こういういじめ映画って、いじめられる側を演じた子どもよりも、むしろいじめる側を演じた子どもたちにトラウマが残りはしないかと心配する。

夏至の日

夏至。一年で一番昼の長い日が日本では例年梅雨なのが辛いよね。今日も朝はいい天気かなと思われたのに曇りがちになっちゃった。

JR京都駅、南海難波駅、梅田あたりも今日はいっぱい人がいた。観光が動き始めている。わたしの知人友人でもそろそろ大人しくしてるのに飽きた〜!外国人観光客が入ってくる前に今こそ!ってんであちこち行ってる人が・・。わたしも行こうかな。

今日はひさびさ京都みなみ会館で『うたのはじまり』。ちょうどコロナ禍にかぶさってシネ・ヌーヴォで見逃してたのを、この一本だけのためにわざわざ行くかなぁ・・と思いつつ行って、やっぱり良かったです。アニメの『音楽』は「音楽」がナイーヴな青春から弾けだす瞬間を描いてワクワクしたけど、こちらも「うた」が人間の唇から生まれ出る瞬間を捉えて、すごくスリリングで感動的でした。両方とも学校で教えられる音楽の系譜などとは離れたところで、音を聴きたい音を出したい奏でたい伝えたい原始的な衝動がじわじわかたちになっていって、それがある瞬間、突然弾けるところがいいよね。しかもそれが生まれてからどんどん育つ赤ん坊から働きかけられ、いざなわれるようになるのが・・。

そのあと夏至だし、アリ・アスターの『ミッドサマー』という手もあったのだけど、もう見てるし(あのエグいやつ二度みる気せんし)、大阪は難波まで戻って、ジュリー・テイモア演出の舞台を映画化した『夏の夜の夢』を見ることにした。シェイクスピアWilliam Shakespeareの"A Midsummer Night's Dream"、かつては『真夏の夜の夢』と訳されてたと思うのだけど、この頃はこちらの方が定訳か。確かに日本語で「真夏」というと、midsummerという言葉が含意する夏至ごろの感じではないもんね。アリ・アスターのも「夏至祭」のお話だし。真夜中も日が沈まない北欧の夏至祭、いいだろうなぁ・・。ジュリー・テイモアJulie Taymorの舞台はすごく耽美的で、場面展開など幻想的でカッコよく、人物造形も俳優の演技も衣装もみごとで、完成度が高かった。楽しめました。なんばパークスシネマではちょうど同じ時期にパリ・オペラ座のバレエによる『夏の夜の夢』もやってて、これも行きたかったのだけど、今日は時間が合わず断念。どうするかな?

『うたのはじまり』監督:河合宏樹 出演:齋藤陽道

utanohajimari.com『夏の夜の夢』ジュリー・テイモア演出 Theatre for a New Audience (TFANA)

www.imdb.com

 

仁義なき力の場

昨日も2本。『罪と女王』『衝動ー世界で唯一のダンサオーラ』。後者は、短躯で小肥りで「ダンサー体型ではない」ロシオ・モリーナの弾けるようなパフォーマンスにただただ目を奪われる。『ラ・チャナ』という記録映画もあってその中にもモリーナは出てたけど、そのラ・チャナとの共演も。ああ、フラメンコっていいな!

前者、予告篇みたときから「ああ、これって見た後いやな気分になる映画やろな」と思い、やめとこかなと思ってたが、評判高いのでやっぱり見てしまった。やっぱり後味悪い映画やった・・。最近ニュースになった40歳と14歳がどうやったかは知らんけど、一緒に気持ち良い遊びをしているうちは対等な関係だと思ってるかもしれないが、いざ問題が起きると「おとな」と「こども」の力の差があらわになる。おとなはあらゆる卑劣な手を使って保身に走り、こどもを踏みにじるのだ・・。そして、おぞましさから目を背け結果的に黙認した周囲も、薄々真実に気づいていながら「自分に都合の良い」真実の方を信じることにした者も・・。「こども」たちがみんな美しくて可愛らしいのもますます悲しくていじらしい・・。

映画業界に限らず、あらゆる人間関係の場で「力」が作用する。カップルであれ家族であれ友だち関係であれ、力で支配したりされたり、その均衡で成り立っているのはなんとかならんものか・・。すごくうまくいっているように見える恋人同士でさえ、どちらかがどちらかを支配・制御していることがすごく多い。長いこと配偶者にモラハラされてて自分で気づかないでいたという人も、ごく身近にいた。わたしは昔っからいじめられっ子の立場に立つことが多かったけど、それだけに、いざ自分が主導権取れる立場になったときに、やっぱり他者を支配したり自分の思う通りに操ったりしたくなる欲望に気づかされる。気づく前に、やってしまうことも、思わぬ言動に出てしまったりすることもある。ほんまに、なんとかならんもんかね?

自粛明けのわりと早い時期に見た『ルース・エドガー』と『許された子どもたち』も、そんな仁義なき力関係を描く。これもきっと予告篇見たときからぜったい嫌な気分になるやつだ、とは思ったけど、後者の内藤瑛亮監督、『先生を流産させる会』(←もう、タイトルからして非道いよね)の出来が鮮やかすぎて、その監督が長年温めてきてようやく製作に漕ぎつけた映画だというので、ぜったい観に来ようと思ってた。いじめ少年がいじめられ少年を殺してしまった、そういう事件は現実にもあったわけだけど、そのとき加害者側はどうなるのか?・・の話。友だち(仲間)関係、家族関係、そしてそのなかの一人と一人が向き合ったときの関係、そのいちいちの感情や具体的な言動がみごとに描かれる。映画の語りもすごく説得力ある。特に主人公の男の子とその母親がものすごかったな。

そういう「力」の制圧する場を救うのは「愛」だとか腑抜けたことがよく言われたりするのだが、『ルース・エドガー』にせよ「愛」とか「信頼」とかが人質に取られたり、交渉の賭け金にされたりした瞬間から、それは本物の(つまりは無償の)「愛」ではなくなる。ルース・エドガーのタイトル・ロールのこどもはLuce(光)という美しい西洋起源の名前を与えられた瞬間から、不均衡な力の場にいることを思い知らされ、その怨みを逆手にとって巧妙に力を操作する術を学んでいく。『許された子どもたち』の主人公が、雁字搦めにされて罪と向き合うことも自分を見つめ直すこともできず出口を見出せずにいるのと対照的に、こちらの主人公は十分自覚的に、いわゆる(偽物の)「愛」とか「信頼」とかを手玉にとっていくのだ。どちらの作品でも主人公のごく身近に主人公を受け止めるような役割の女の子が現れるわけだけど、『許された〜』のその女の子の犠牲者の姿(牛乳をぶっかけられる)に対して『ルース〜』の韓国系の女の子の、社会的には犠牲者として振る舞いながら、ルースといるときの動物のように光る目がものすごかったな・・。

こんなふうに 陰湿な「力」ばかりが横行する場に生きていると、『仁義なき戦い』とか具体的にドンパチやって血がばんばか流れる世界の方が、いっそカタルシスになって見終わったときにスッとするってのがあるんでしょうね。深作欣二の特集、京都でやるらしいですよ。

『罪と女王』Dronningen

Dronningen (film) - Wikipedia, den frie encyklopædi

『衝動ー世界で唯一のダンサオーラ』Impulso

Impulso–Film - Rocío Molina

『ルース・エドガー』Luce

Luce (film) - Wikipedia

『許された子どもたち』内藤瑛亮

映画『許された子どもたち』オフィシャルホームページ

アップリンクのことなど

先日のリストに入れ忘れてたのが『15年後のラブソング』。昨日見たのが『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』。すごくすごくすごく楽しみにしていた作品だし、もちろん出来は予想以上だし、グレタ・ガーウィグの創り出した、今の今に最もふさわしい『若草物語』の世界に思う存分ひたりきって、外に出てくると、なんだか今の現実(ほとんどの人がマスクをしている)世界が嘘のような、たちの悪い冗談のような気がしてくる。今日は『コリーニ事件』。

一昨日の月曜に初めて行って、会員になって、これからも精々通おうと思ってたアップリンク京都だけど、そのアップリンク浅井隆さんのパワハラ訴訟のニュースはいかにも残念! どこの世界でも、その人にしかできない優れた仕事をしている人ほど、自分の意を汲んで動いてくれる人に対して辛く当たることがよくあるんだろう。ことに映画とか演劇とかの世界では、作家としてのエゴが、他者を利用したり支配したりという方向にいってしまうこともあるのだろう。良いものを追求するという名目で、現場が苛酷で非情な環境になってしまうこともよくあるんだろうな。これまでアップリンクが見せてくれたものすごくユニークな映画作品群が、どれだけわたしの(映画的)栄養になってきたか・・。浅井さんの仕事が独創的であればあるほど、本当に残念でならない。

この業界、他の人、他の組織でも似たような話は耳にしたことがある。自分一人でやるならどんな無茶でも無理でもシャカリキにやり遂げてしまうことができるかもしれないけど、それを他者にやらせたり、自分の意に沿わなかったりしたときに、パワハラモラハラ・・は、やっぱりあかんよなぁ・・。

映画にハマり始めたはるか昔の頃、これを少しでも飯の種にできないかとよぎったこともないではなかったが、作るにしても、見せるにしても、また評論など周辺で関わるにしても、ホントに厳しい世界。それを仕事にして食ってこうとすると、わたしにはとても無理だと観念したことがある。

浅井さんは今回のコロナ禍のなか、ミニシアター(や映画業界全般)が生き残るためにも素晴らしい働きをしていた方だし、だからこそ、今回の訴訟をひとつの奇貨として、業界全体を見直してもっと良い環境にしていくような動きになればいいなと思う。わたしは消費者として、一ファンとして関わることしかできないけれど・・。

ちょうどおんなじようなタイミングで、いま映画館にいくと予告篇が流れている、ティモシー・シャラメくん(いま旬ですね!)の次の作品の監督、ウディ・アレンにまつわるきな臭い話も聞く。そのことでハリウッドが(アレン批判派と擁護派に)二分されてるとも聞く。こういう場合はまず被害者の言い分を丸ごと受け入れることが基本で、そうなるとアレンを弁護する余地などなくなるのだけど・・。しかし幼児期に保護者から性的虐待を受けた記憶というのはしばしば偽の記憶であることも多いと聞くし、真相はどこまでいっても闇の中なのかもしれないし(でも、きっと、そんなふうに言うと被害者を追い詰めることになってしまうのでしょうね)。

それにしても、ウディ・アレンぐらい長いキャリアがあってどの映画も秀作というような人ならもちろんのこと、浅井隆さんも、また『童貞。をプロデュース』の松江哲明監督も、劇団「地点」の三浦基さんも、また『人間の時間』のキム・ギドク監督も、それまで自分のやり方で強引にやってきて、それでちゃんとした作品を創りあげてきたんだって自負も誇りもあればあるほど、間違いを認めることが難しいし、変わることが難しいんだろうなぁとも思う。たとえ表面的に反省したとしても、意識の底では自分が正しいと思ってるかもしれないし。また、周囲がひどい場面を目撃しても「あれが彼のやり方で、彼はちゃんと結果出してるんだし」と黙認することもよくあるんだろうし、部下が酷い目に遭っても、自分は好きな仕事をしてるんだし尊敬する人についてきてるんだからと「やりがい搾取」されることもあるだろうし、それを当然視して再生産する環境もあるんだろうし。

昔の人ならもっとひどい話をいっぱい聞くもんな。映画製作一つとっても、俳優のプライドを粉々にしないと気が済まない監督とか、女優に手を出す監督とかプロデューサーとか、「灰皿が飛ぶ」ことで有名な舞台監督とか、DVで告発された劇作家とか。ああ、わたしが自分で体験した広告業界・出版業界でいうと、幻冬舎と箕輪厚介の問題もあったよね。これはもう弁護の余地など微塵もない。女性のフリーライターにはセクハラして当たり前、枕営業を要求して当然と思ってる編集者とかディレクターとかクライアントとかうんざりするほどいる。ましてや芸能界の枕営業の話なんか、もう男女問わず洋の東西問わず反吐が出るほどあるもんな。

こういうのは一人一人が意識して変えていかないといけないし、そういうのが集まって今とは異なる文化を作っていかないといけない。映画監督で言えば、例えば、監督だからといって現場を「支配」することは決してしないし、俳優に指示を出したりすることもしないということを方法論にしているというアルベルト・セラとか(諏訪敦彦さんも同じような方法論でやってると聞く)、出演陣やスタッフに最大限の気配りを行うという黒沢清さんとか深田晃司さんとか、いろいろ良い例もよく聞く。カトリーヌ・ドヌーヴを立ててフランス映画を監督した是枝裕和さんの、その『真実』のメイキング見てると、「日本だったら『もう今夜中に撮ってしまおう』となるところ、フランス映画の現場では決してそうならない」みたいなことをおっしゃってた。つまりは日本の現場で「無理を通す」ことをスタッフも監督もみ〜んな当然としている局面、世界標準ではもうそうなってないってことだな。しっかりルールを作った上で、こういう文化になっていけばいいけど。そして映画に関わる人たちの全てが、ちゃんと良質な作品を創りつつ、食ってけるようになればいいと思うけど・・。

   *

新型コロナで公開延期になってたやつでこれまでのところ良かったのは、もちろん『デッド・ドント・ダイ』に『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』。今日見た『コリーニ事件』もなかなか・・。また改めて感想書きます。

『デッド・ドント・ダイ』で神々しいお姿を見せていらっしゃったティルダ・スウィントンさま(←これは当然「さま」づけ)も、初めて見たのはアップリンクの配給したデレク・ジャーマンの作品群だった。あの若くて美しくて知的で、性を超越した存在のみごとだったこと! もう手放してしまったけど、ジャーマンのビデオソフト(当然アップリンクの製品)は、いちばん好きな『エンジェリック・カンヴァセーション』はじめとしてずら〜っと持ってた。クイアの世界に目を開かせてくれたのもそのあたりが最初でした。アップリンク京都のオープニング作品にもジャーマンは含まれてたっけ? 全く知らない人に『BLUE』とかはちとキツイかもしれないが、またスクリーンを凝視しに行ってみたい気もする。(家のモニターじゃダメなの)。