稍ゝおも

ややおもしろく、ややおもたく、jajaのJa,Ja,おもうこと

太陽劇団

こっちの方が書きたかったの。ものすごかった。圧倒された。期待を上回る。3時間の長丁場をまったく長いと感じさせずすこしも飽きるところがなかった。

'60年代後半からの前衛芝居で世界の旗手を務めながらその強度を今のいままで保ちつつ世界のトップを走り続けるんだからそれだけでもすごい。わたしがまだガキンチョで本邦を出ることなく天井桟敷だ赤テントだ黒テントだと夢中になってた頃からの憧れだったもんな。アリアーヌ・ムヌーシュキンという不思議な名前とともに・・「太陽劇団」というそのものズバリの訳語を定着させてくれた先人に感謝する。テアトル・デュ・ソレイユとか呼ぶよりずっといい。

で、今回の『金夢島 L’ÎLE D’OR Kanemu-Jima』がわたしにとって初「太陽劇団」観劇体験。これまでドキュメンタリー映画は見たことあったけどナマは初。それがまた日本が舞台という・・コロナ禍がなければ一昨年京都が初演だったはずだという・・。

京都エクスペリメントでチラシを見かけて慌てて前売券買ったのだけど幸い前から2列目の良い席で見られました。最後に挨拶に登場したアリアーヌさんも間近で見られたしね。

まず芝居そのもの。3層構造になってて第1層がベッドに横たわり日本の夢を見ているひとりのフランス人のおばあさん。この層に登場する人物は基本的に素顔。

彼女の夢のなかの日本が第2層。これ以下の層に登場する人物はみな不思議な仮面をかぶっている(というか顔に装着している)。仮面劇はこの太陽劇団の一つの伝統であろうと思う。で、夢の中の「日本人らはみんな日本語を喋っているけど完璧に理解できる」という設定で、したがって金夢島の日本人らは芝居内では全てフランス語を喋る(字幕が出る)。のだが、このフランス語が不思議なフランス語で倒置法を多用する。エレーヌ・シクスー(ラディカルなフェミニストであり詩人であるこの人も昔っからわたしの憧れの的)が手を入れている詩的言語だからか?と思ったが、よく考えてみればこれは「日本語っぽいフランス語」の表現なのだろうかと気づく。(例えば「.............がある」と日本語で言うときフランス語では「Il y a (イリア)............」という語順になるのだが劇中のセリフでは「.............. il y a」という語順になってる。ネイティブのフランス人が聞いたらかなり違和感があるのではないか。)

その日本の金夢島で開催されるフェスティバルにさまざまな出し物が登場しこれが第3層。ここに賑やかにも世界のあらゆるactuel(今日的というとなんかぬるい。まさにアクチュエルで政治的)なネタが登場し世界のさまざまな言語そのものが話される。(ひとつ残念だったのはユダヤ妻とアラブ夫との夫婦漫才。よくあるネタとはいえ今のパレスチナの情況からはちょっと笑ってみてらんなかったな・・)。金夢島そのものの物語(カジノ開発!)もふくめこの常にactualitéを喪わないところがまた太陽劇団の強みと思い知らされる。

世界のあらゆる言語、あらゆる伝統芸、とりわけ日本の伝統芸を学び演じる役者らの演技力、それを具現化する演出力は大したものだと唸らされる。(観客によってはやっぱり日本の伝統芸を取り入れた部分に不満がある人はいたみたいで「フランスでやった時よりは少しはマシになってた」みたいな声も聞こえた。そりゃーすり足がすり足に限りなく近いけどやっぱり違うとかそれはそれでそういうあえて「もどき」(擬)の表現なんだと思うけどね。)

古典的な日本語(たぶん謡曲のセリフを改変したもの)をそのまま役者が口にする場面もあったけど、面白かったのがその古典の日本語と字幕がちがってた場面。日本人にも古い日本語は聞いてそのまんまわかる人が少ないことわかってての演出か?フランスで上演するときのフランス語字幕はそうなってたんやろな。

そして場面場面の転換は、役者も含め黒子も含めそれもまた演技の一部としてみんなでやる。ここがまたこの劇団らしいところで、役者も大道具係もなくヒエラルキーなく全員平等という共産主義がちゃんとここにも生きていて舞台上でも見せてくれるわけだ。セットの巧みさ、美術の巧みさ、素早く鮮やかに場面が転換し人びとが舞台上を駆けめぐる。いろんな芸を見せてくれ、物語を過不足なく語っていく。

全体的に歌舞伎のように楽しい楽しいスペクタクルを観ているような印象。たっぷりと満足感。刺激的な部分はいっぱいいっぱいありながらしかつめらしい難解さを感じさせない。本当に「すごい」と圧倒された舞台でした。

ああまた見たいな。新作も見たいな。旧作も見たいな。フランスの本拠地も行ってみたい!