稍ゝおも

ややおもしろく、ややおもたく、jajaのJa,Ja,おもうこと

にんげん、こわい

べつにそう意識して2本立てを組んでいるわけではないが・・
ある日のハシゴは『よこがお』と『カニバ パリ人肉事件38年目の真実』。
どちらも怖かったです〜・・。

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caniba-movie.com

生徒に古文を教えるとき、古文では「念ず」も「愛す」も「ものす」も全部サ変動詞なんだよという説明をし、でも現代語だと違うでしょ? 「念じる」ならば「念じない、念じます、念じる、念じるとき、念じれば、念じよ・念じろ」と上一になるし、「愛す」ならば「愛さない、愛します、愛す、愛すとき、愛せば、愛せ、愛そう」と五段になる。・・と言ったそばから、でも「愛する」も言うし「愛するとき」も言うし「愛すれば」も言うよなぁ・・と気づく。だからといって現代語のサ変動詞のように(「勉強しない」「勉強しろ」のように)「愛しない」「愛しろ」とは決して言わないよね(言う?)。古語のサ変動詞の五段化に、「愛する(古語の連体形が現代語では終止形になるパターン)、愛するとき、愛すれども・愛すれば」という古語が中途半端に残っているということか・・。
・・という話が書きたいわけではなく・・
にんげんの「愛す」とか「好き」とかに、おそろしい動機がふくまれているよなぁ・・てこと。
市川実日子のようなこと、ふつうにやっちゃうひとはたくさんいるんじゃないだろうか。好きな相手を「支配する」「乗っとる」。それを「おそろしい」とか意識せずに・・。
深田晃司監督を最初にすごい!と意識したのは『歓待』(2010)で、あれも相手に(よその家に)侵入し乗っ取り支配する話だったけど(ちなみにそのときに初めて凄い!と意識したのが古舘寛治で、それから目が離せなく、想田和弘監督の『演劇1』『演劇2』(2012)を見て以来、もとから好きだった平田オリザ青年団からますます目が離せなく、本拠地こまばアゴラでちゃんとその公演を見るのが目下のところの夢ですわぁ・・)。
話をもどすと・・怖いのはそのように自分の内なる動機が達せられるのならば(それが相手にどんな結果をもたらすのかをまったく考えず)平然と嘘ついちゃう市川実日子なんだけど、それにまんまとはまり、人生を台無しにされ、なにもかも捨てて全力で(そしてしずかに)復讐という無償の行為に身を投じる筒井真理子がものすごくて、まためちゃ美しかった!
ちなみに、わたしは実人生で一度だけ、こういうのにはめられたことがある。もうええ歳になってたけどそういうのにはまるでナイーヴで、ほんとうにびっくりして、まんまとはめられた自分がものすごく間抜けに思えて、相手のそういうやりかたにもあきれはてて、もう復讐などおもいつく余裕もなく(というか、復讐するほどにも実害はなかったのだけど)、ただただその人から離れることに懸命でした。そういう相手が嫌いという気持ちはなく、そういう人もいるんだぁ・・そしてそういうところに「はめる」「はまる」「はめられる」人間関係もあるんだぁ・・と、お子ちゃまのわたしは思いましたですよ・・。(とか書きながら、じぶんがまるきりそれと気づかずだれかにたいしてそれをやってたら・・とおもうとまたそれもおそろしい。いや、だれしも多かれ少なかれ持ってるんだろうなぁ・・)

佐川一政については・・もうこのドキュメンタリーときたら、佐川とその弟のほとんどどアップばっかりでもう目のやり場がないというか、こんなに胸糞悪いどアップの連続は初めてで、もう生理的に見続けているのがしんどいばっかりで・・。
佐川ももちろん大したもんだけどその弟もなかなかのもんで、しかしこれがまた意外と陳腐に見えてしまう・・ありふれたことのように見えてしまうことがおそろしい。
こういうのも「にんげん」のなかに普通にあるというのが、また怖ろしい・・。
エンドクレジットに流れるフランス語の唄はなんだったんだろう? folie〜folie〜(狂気・狂気・・)とか繰り返してさ。「狂気」のすこしばかりは身の内に抱えているし心得もしているといえ・・(て、そのことが怖いてか?)。いや、わたしのんはホンマにありふれた狂気ですし・・(言い訳にならない?)。