稍ゝおも

ややおもしろく、ややおもたく、jajaのJa,Ja,おもうこと

家という表象(2/2)・・エリザベートの胴

先の『オオカミの家』にまつわる記事のなかで「家」とはマリアの「からだ」そのものでもあり・・とか書いたのだけど、その感覚わかってもらえます?

夢のなかに家や建物が出てくることは普通にあるかな。わたしの場合「わたし」そのものが「家」であるという夢もよく見ます。夢の中のその家の状態でわたしの状態がわかるし、そこに招き入れる人たち、訪れてくる人たち、そのとき何をやってるか、その雰囲気やみんなの気分やわたしの気分、何が行われていてどういう言葉が交わされているか・・などなどを見て、自分の欲望(または恐れ)のありかもわかる。

そういえば(まだ本題に入らない)わりと最近見た昔のNHK特集でアルハンブラ宮殿と女王イサベラの話をやってて、そのなかでアルハンブラ宮殿の一部に「自分」(=宮殿の建物)を女性として一人称で語っている文章が(もちろんアラビア文字で)書かれているみたいなことを紹介していた。イサベラ女王もまた自身のイメージを宮殿に投影していたところがあったのかもしれない・・。

で、ようやく本題に入りますが、

エリザベート 1878』Corsage(2023)  Dir : Marie Kreutzer Star : Vicky Krieps

ヴィスコンティの『ルードヴィヒ』Ludwig(1973) Dir : Luchino Visconti Stars : Helmut Berger, Romy Schneiderを偏愛している向きには、または(見たことないけど)宝塚歌劇の『エリザベート』を愛していらっしゃる向きには、ロミー・シュナイダーの溌剌として美しいイメージとは全く異なるヴィッキー・クリープスの中指立てる(この仕草もそうだけど劇中ときどきその時代にはあり得なかったでしょの言葉や表現が出てきて面白い)エリザベートに戸惑うかもだけど・・「もう若くない」40歳を迎えたエリザベートの1年を描いた作品なので、ヴィッキーの生意気なくせに繊細で傷つきやすいその顔つき存在感がぴったりなんです。本当なのかどうか?エリザベートは美しい肖像画をたくさん残しているけれど、40歳以降は自らの若く美しい評判を保つために肖像画を描かせなかったという。

そのかわりここで描かれるすさまじい拒食症と細い胴回りへの執着。食や食卓を拒否し性に向かうその(むしろ死に向かう)反発力そのものが彼女の生(/死)に必須な栄養素となる。そのビリビリくるようなあやうさ痛快さ。

・・ところで原題のcorsageですが「コルセットで締め付けること」ぐらいの意味なのかなとぼんやり思ってたところ、辞書引いてみると「(長袖の)ブラウス、(ドレスの)胴回り・身ごろ」の意味しかないのね。つまりは女性の「胴を覆うもの」ぐらいの認識でいいのかしらん? と思うと、公式サイトでは「コルセット」の意味だと書いてある???

とにかく「胴を覆うもの」だとすると、これは『オオカミの家』のオオカミにあたるのか?彼女の胴のまわりを徘徊し彼女を監視し呼びかけるねめつける締めつける・・。

侍女たちもまた彼女の胴体corpsに巻きこまれひとつの軍団corpsとなって強くしなやかで細い胴を維持し、男たちや周辺社会と対峙する。(身代わりになったり人生を捧げたり階級的には皇女に属して大変な思いをしてるんだけどそれぞれの女性もまた魅力的だ)。むしろ幼い娘が保守的で窮屈な価値観を振りかざして主人公を脅かしたりする。

ふだん喋っているオーストリアのドイツ語(これにもいろいろ方言とかあるのかもしれないが残念ながらわからず)、そちらの方がお気に入りらしいハンガリー語マジャール語か)、相手によってしゃべり分ける英語、フランス語・・そしてその時代らしからぬ現代の俗語。

彼女が唯一くつろげる従兄弟のルードヴィヒの館(これもヘルムート・バーガーと違いすぎて・・という嘆きはなしにして)、死の魅惑とそこに身をゆだねることの快感をあじわえるような夜の湖、彼女がヨーロッパを転々としその身を(一時的であれ)容れる城や館の建物のありようが、また彼女そのものの「からだ」を体現する。きらびやかに飾り立てられていたり、廃墟のように荒んでいたり、不思議の国のアリスが大きくなった身体を持て余すようにつっかえてしまったり・・。

「からだ」の「から」は「空っぽ」の「空」すなわち中空形態のものを指すみたいな語源論を聞いたことがあるけれど、『オオカミの家』も『エリザベート1878』も、そのからっぽな中空の家に異物が生えてきたり闖入したり内側を塗りかえたり傷んできたり崩れてきたり、また自分自身が異物だったり排除されたり、すぐれて「からだ」映画だったと思います。それもやはり「女のからだ」なのかな?