稍ゝおも

ややおもしろく、ややおもたく、jajaのJa,Ja,おもうこと

熱き映画

同じ名前の世界的な映画配給(&製作)会社があって、スクリーン上にその名を認めるたびに思い出さずにはおれない、サム・ペキンパーの代表作の名を戴いた古書店兼バーが、かつてわたしの住んでたアパートの真向かいにあって、映画好きが集まり、フリージャズなどのライブもよくやってて、いろんな方面にわたしの目を開かせてくれた。
いまは故人となってしまったそのお店の最初のご主人に、一番好きな映画監督を尋ねてみたところ「ケン・ローチ」というお答えで、ちょっと意外だった記憶がある。映画好きがよく挙げるようなアメリカやフランスの曲者監督ではなく(ちなみにわたしはフランスの曲者監督挙げます。その名を挙げると映画好きからは「そいつはむしろ映画の破壊者だ」とか言われるのがオチでしたが・・)、昔の日本映画(芸術映画であれ娯楽映画であれ)の監督を挙げるのでもなく、イギリスという映画的には辺境の、しかも(映画ジャンル的には主流ではない?)社会派監督の名を挙げられたのだから・・。
しかしKen Loach ケン・ローチ、あらためてその長いキャリアを見ると、本当にこの人にしか撮れない映画を、この人にしか実現できない演出で作り続けてきたことに、真に驚きの念を抱きます。その最新作が本作。

『家族を想うとき』Sorry We Missed You (Dir: Ken Loach)

en.wikipedia.org

映画『家族を想うとき』公式サイト

原題は日本だと「不在連絡票」と書かれてるあれ。なるほど英語ではそういう文言で書かれるのね。
miss という英語の単語には、いろんな意味いろんなニュアンスがあって、邦題うまく付けたなと思います。映画の中で都合2度映し出されるこの票に、手書きで書かれるそのメッセージは、いずれも家族への想いをこめた真摯な言葉なのである。
引き換え、いまどきは手書きすることじたい少なくなってしまっている。スマホや携帯であれ、宅配会社のボスが gun(銃)と呼ぶあれ(宅配便の配達人がみんな持ってて指でサインを要求される「あれ」ね)(その「銃」は映画の伏線の法則に従ってまさしく後半で発砲されるのだが・・)であれ、指先で画面のキーボードをタッチしてテクストが打たれる。しかし、君たち、そのシステムが問題なんだよ。それがその一部であるその(なにやらの)世界のシステムが、君たちを(わたしたちを)、叩き潰そうとしているのだよ!
親が説教しようとしているのに、子どもがその親の顔を見ようともせずスマホをいじってる。親が頭にきてそれを取り上げるやいなや、子どもは逆上し、その時初めて親の顔をまともに見て取り戻そうと必死に突っかかり・・とは、今時あまりにもありふれた光景だろうか。スマホごときにないがしろにされて憤る親の気持ちもようわかる。自分の半身に等しいスマホを取り上げられて逆上する子の気持ちもようわかる。そのとき、ひとびとはそもそも自分たちが既にそんな世界のシステムに絡めとられてしまってることにそれほど自覚的ではない。(文字通り「鍵」となる何かを隠した娘だけが気づいていたのかもしれない。)本作の主人公のように、働いても働いても食えないワーキングプアの罠に落とされ、グローバル経済の論理の中で誰にも守られない剥き出しのvulnerableな弱者として、義理も人情も仁義も倫理もない(なにやらの)システムに搦め(からめ)とられ、あちこちから小突きまわされて、それでも生き延びなければならないのだ・・。そのなかで「家族」が、あらゆる力に曝されていまにも毀たれ(こぼたれ)そうになりながらも、嵐の中でちいさな砦のように耐えてそこに在り続けている・・。
家族の4人ともいいな。みんなカッコつけたりしない、ぶきっちょでありのままの顔をし、ありったけの感情をこめて、そのひとそのまんまの言動をする。(こんな女の子知ってる、こんなお母さんも知ってる、みんな、わたしたちのごく身近にいる・・そう思わせるリアルな演出)。
息子を演じたリス・ストーン Rhys Stoneが『ケス』Kes (1969) の主人公の少年に面差しが似通っていて、その少年が大きくなって声変わりして低い(そのまだ稚さの残る顔に似つかわしくない艶のある)声になって、親を罵るまでに成長したのだと一瞬思いかけて、ケスはしかし1969年の作品なのだから・・と思うとその年月の飛んで過ぎる早さにクラクラする。
あれから世界はマシになったのか? ケン・ローチが一貫して寄り添い続ける弱者の置かれる状況はますます酷くなっているんじゃないのかしらと思います。
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ちょっと前に京都の出町座(これがデビューでした。もっと早くに行きたかったのだけど)で観てきた、サンティアゴアルバレスSantiago Álvarez 特集上映。(全プログラム観たかったけどスケジュール的に無理だった。残念!)

生誕100年記念 サンティアゴ・アルバレス特集上映

熱いモンタージュに映し出されるヴェトナム人民の顔や姿に共感しながら、チェ・ゲバラの声にあらためて耳を傾けながら、そして、ケン・ローチの映画では宅配会社のボスの憎々しい顔/姿として体現される、民衆を叩き潰そうとする「なにやらの」システムの手先の権現のように現れるLBJロブ・ライナーの同名の映画ではウディ・ハレルソンがこの上なく人間らしく演じてみせたその顔と、サンティアゴモンタージュする実物の写真と、なんてなんて違うこと!)にゾッとしながら、やはり世界は変わっていない、映画にはこの熱き心が必要なのだと、再認識したことでありました。

気色悪い家族3題

日常のお買い物にPayPayの侵蝕が激しく、現金を使うお店がますます減って、財布のなかに小銭のたまること・・困った。しかし次なる試練は、マイナンバーカードを作ると褒美を遣わすというアレ。マイナンバーそのものをできるかぎり使ってない(知らせてない)し、ましてやカードを作るつもりもない。なんとか抵抗するつもりですが・・。
以下は、随分以前に書いてなんとなくエントリーしそびれていた記事。(「銀残し」をきっかけに・・)

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他人の家族は多かれ少なかれ「気色悪い」ものである。(自分の家族も客観的に眺めればなんらかの気色悪さが絶対ある。どんなに自分ちが「ふつう」と思てる家族にもね)。家族を描いたあらゆる作品はその「気色悪さ」をどう描いているかに価値があるのだと思う。それにしても半端なかったのが、たまたま一日のうちに見てしまった3本。
なんでそういう状況になるんやとか、どういう感情のやりとりがなされてそうなるんやとか、わからない、気色悪さ。それは、ことさらに特異そうに描かれる、その家族の置かれた特殊な状況のせいではなく、家族そのものになにか本来的に宿っているものかも知れぬと思う。(・・と、一人暮らしのわたしはたまに実家に帰ってそう思う。家族じゃなくても、友人知人らのグループのなかにいて、そう思う。いや、誰かと二人になった瞬間から、その場に生まれる「変」さの偏差(洒落ではないが)にちょっとぞっとしたり、或いは(相手によっては)巻き込まれるのがむしろ快感だったり、する。(とはいえわたしの場合、どんなに好きな相手でも「人疲れ」してしまってけっきょく一人でいるのがいちばん心地良かったりするのだけどね・・)
『ひとよ』

hitoyo-movie.jpこれって原作からこうなのか?それとも白石和彌の演出で作ってるところが多いのか?画面のルックスもそうなんだけど色味が希薄で陰と陽が極端な感情のやりとり。家族(母自身も含め)がこの母を扱うやり方はなんなの?(母のこの受け方はどうなの?)と思う以上に、このタクシー会社ってなんなの?と思っちゃう。でも役者たち全員いいです(特に女優陣)。
ちなみに、この画面の色合いは「銀残し」という手法で得られたものだとか。市川崑が『おとうと』(1960)で使ったことで有名。見ただけでそれとわかった映画友達さんがいて、敬服しました!
『影踏み』

kagefumi-movie.jp一卵性双生児だからといってこれはないんじゃない?(一卵性双生児を神秘化し過ぎちゃう?よくあるパターンではあるが)。『ひとよ』と似たような世間の悪意というモチーフが出てくるのだけど、これはこれでこういうものなのか? で、しかしこの監督お得意の青空に緑の樹や草。いや、その美しさに回収してしまってはイケナイんじゃないのと思う。
ちなみに本作にはある仕掛けがあって、全く違う映画だけど(あ、でもこちらにも気色悪い家族は出てくるけど)『ブルーアワーにぶっ飛ばす』にも似たような仕掛けがあるんだけど、それって予告篇からバレてるし・・。本作の場合、本篇始まってすぐその仕掛けがわかるように作られているからえーっちゃえーのかもしれんけど、だからと言ってこういうバレバレの予告篇作らないでほしいな。
『最初の晩餐』

saishonobansan.com(いくつかの家族映画やいくつかの家族物語がエラソーに主張するように)これが「家族」というものだとか押し付けられるとすっごく嫌で気色悪さはそれこそ満開になるのだが、これも紆余曲折ありながら未踏の道を踏みながら「家族」ならざるものが「家族」になっていくすじみちだ・・登山ルートみたいに・・みたいにその嫌さ加減がじんじんと「気色悪さ」(これを「気色の良さ」と感じる人もいるに違いないが)になって染みとおる作品。という意味では成功しているといえるのだろう。
しかし、目玉焼きから始まってお通夜の一晩であんなにたくさん食わされるとお腹パンクしてしまうぞ。

大阪の下町の長屋でアルゼンチン音楽

知ってる韓国語の語彙は極々少量で(そもそもどんな外国語やってもわたしは単語覚えるの苦手)もう少し語彙あれば韓国語の場合はニュースもちょっとは聴き取れるのかな?・・と思う。열차 yol-cha ヨルチャはその少ない語彙のなかで最初期に覚えたひとつで「列車」の意味。その名を冠した小さなギャラリーが中崎町にあって(実は前々から知ってはいたけどなかなか足を運ぶチャンスなくなぜか今年になってから)しばしば行きはじめた。大阪の古い長屋を改造したスペースで、お隣のFLAT spaceとともに、素敵な展覧会やライブなどをやってます。

https://yolcha.jimdo.com/

昨夜はキケ・シネシ(ギター)&岩川光(ケーナ)によるアルゼンチン音楽の夕べ。FLAT space 2階の小さなスペース、観客はみな座敷に座りこんで、目と鼻の先で演奏される音楽を聴く。美しい音の響きに包みこまれながら、うっとりと演奏家の動きに見惚れている。キケの奏でるギターの音色のなんと繊細でゆたかなこと!光さんの楽器と身体(口元や息や・・)がまるで一体化したかのような技巧から紡ぎだされる音のなんと勁く躍動的なこと!(一部の?)音楽家にとって「あたまおかしい」というのは褒め言葉のようであるが、ホントに「あたまおかし」くなければ奏でられないような、素晴らしい音楽を経験した一夜でした。

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光のみちすじ

昨夜食い過ぎたせいかお腹の調子がもうひとつで、こういう状態でジムのプログラムに行く気しないので、早々に止しと決めたが、だとすれば今日は出講先との往復のみなので圧倒的に運動量不足になる。こういうときは歩数かせぎのために地下鉄2駅から3駅分ぐらい歩く。今夜はあたかも十二夜(十三夜?)のお月さんが綺麗で、しかも大阪市内「光のルネサンス」とやらでイリュミネーションだらけ。地下鉄を淀屋橋で降りてそのルネサンスとやらを通り抜け(しかし毎年思うのだがあの音楽のセンスはなんとかしてほし。一般受けを狙うからかもしれないけどそれにしてももっとマシなの出来そうなものだが・・)、難波橋(なにわ橋)をくぐって天神橋へ。そこから自宅(いちおー秘しておく)まで歩く。万歩計かろうじて10,000歩以上をクリア。

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昨夜は思わず、なーんにも考えんでも書ける映画のことを先に書いちまったが、ホントは昨日4本ハシゴしたなかで心に残ったのは以下の二つ。ちなみにあとのひとつの『ゴーストマスター』も悪くはなかったんですよ。たしかに映画愛はジンジン伝わってきたもの。でも、だからこそ、なんで成海璃子やねん! いや、成海璃子が嫌いなわけではなくめちゃ好きな女優さんですよ。でも、ここは、成海璃子ではなく、武田梨奈しかありえないでしょーが!!というのが悔しくて仕方なくて・・いやこの際、水野美紀でもよかったと思うのですが・・。
て、話が逸れた。
『アダムズ・アップル』Adam's Apples Dir: Anders Thomas Jensen

en.wikipedia.orgこんな作品撮れるなんて、この監督あたまおかしいんちゃうん?(褒めてます)。Adam's appleといえば日本語で言う「喉仏(のどぼとけ)」のことだけど、神が創った最初の人間(=男)たるアダムが飲み込みかけて喉元で止まった林檎・・現実を目の前にしても現実を見ようとせず独り善がりな幻想(想像界?いや象徴界)を生きる男の倒錯が、現実(界)からどれだけの仕打ちを受けてもしぶとく男を生き延びさせ、別の倒錯男をまぐれに運良く(あるいは倒錯的に)救う話?
日本語では仏さん一人をそこに留めているトポスに、原罪の標(しるし)(大文字のなんとやら)がそこに在って、それは具体的に木に成る(なる)たくさんの林檎(小文字のなんとやら)でもあり、まるでバウムテストみたいにどかんと確かに鬱陶しく其処(そこ)に在るのだが、それは(超越者たる)雷に打たれてあっけなく焼けて滅びてしまうなりゆきであっても、そのように現実(界)が(あるいは大文字の超越者たる神が?悪魔が?天が?)どんだけ邪魔しようとしても、かろうじて林檎一個だけを留め置く盗人(ぬすっと)の手(手紙を盗んだ手のような)があって(また援護射撃とて銃を撃ちまくる赤塚不二夫のキャラクターさながらのテロリストがいて)、約束の林檎ケーキはやっぱり焼かれるのである・・。歪んだ鼻つけた倒錯男ことマッツ・ミケルセン Mads Mikkelsen は、デンマーク語のほうが母語にあたるのか? いずれにせよ北欧映画で相当鍛えられてきておるな。北欧恐るべし。
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『台湾、街かどの人形劇』紅盒子 Father 楊力州

machikado2019.com日本でも昔の人は一人一人が持ってた持仏みたいな私物の神様の像。それを収めている紅い小箱『紅盒子』が中国語の原題で "Father" というのが英語題。本作の主要人物たる陳錫煌の父である李天禄の藝はもちろん侯孝賢の映画のなかで目撃している。その父を持った長男でたまたま母の姓を受け継いだせいで弟がまず父の後継者となりその弟に先立たれてしまい・・といった複雑な家&後継者事情。父への複雑な感情/関係がいま弟子筋への関係にも重しのように重たい圧力を加え・・と、こちらはすぐれてフロイト的な精神分析物語であるのだが、なぜかそんなひとびとの熟練の手によって演じられる布袋戯の舞台だけはそんな葛藤はどこへやら、なんと軽々と、また繊細に動くことよ!

Adams æbler - Wikipedia, den frie encyklopædi

手抜き調理(しながらひとり酒)

農産物は日に日に(あるいは年毎に)品種改良されていて、びっくりすることがある。「改良」というが、こちら(消費者)にとって良いのもあれば、残念なのもあって・・。
今日買うた大根が、びっくりするぐらい柔らかくて、煮えるのも早くて、味のしみこむのも早い。新品種なんだろうな。まるで蕪(かぶら)のようだ。
残念なのが、よく買うてた大阪白菜(「はくさい」ではなく「しろな」と読む)。なんか、ある年からえらい青梗菜(チンゲンサイ)寄りになってしもた。昔ながらの「しろな」はどこへ行ったの〜? 今年もあまり見かけない。
「しろな」に関しては母の愚痴を思い出す。昔、我が家が貧しかったころ(今でも裕福とはいえないが)、母は八百屋へ行くときまって「菜っ葉」を求めていた。八百屋に「おまえんとこいつも菜っ葉やな」と言われ、悔しくってしょーがなかったと。貧しかったから、いちばん安い「菜っ葉」ばかり買うてたのを、八百屋にからかわれたような気がして、若い嫁としては屈辱だったらしい。その「菜っ葉」が、今で言うところの「おおさかしろな」。わたしは、好きですよ。小松菜とおんなじように扱えるけど、小松菜よりクセが少なくて好き。法蓮草よりも好き。ところが、最近はあんまり見かけなくなったな・・。
今日昼間に買うたのは、その品種改良されたと思しき大根と、金時人参金時人参はこの季節になると必ず買う。安いし、なんとでも食べられるし、甘くて大好きなんですもん。
で、今夜は、ジムから帰ってその後の予定なく時間がわりとあったので、調理と食うのと飲むのと保存用を作るのと、以下のように手順を踏みました。
まず、おだし(昆布と鰹節と鯖節とその他魚介節を中心にしただしパック。ただいつもこの味になってしまうのでホントは使いたくないのだけどね)と味醂(けっこうドバドバ入れる)と少量の塩と淡口醤油だけで、まず根菜を煮く。ええ加減に煮えたところで葉菜を投入。そのまま全てが程よく煮えるまで煮て、あと火を止めて味をしみこます(この過程が重要)。
それから、今日食う分を引き揚げた後は、タッパに移動。残った煮汁(だしパックはそのまんま)で、厚揚げ(関東で言うところの「生揚げ」)と蒟蒻を煮く。これも程よく煮えるまで煮て、あと火を止めて味をしみこます。練り物(関西で言うところの「てんぷら」関東で言うところの「さつま揚げ」や竹輪などの類)は、いつ入れてもいいけど、サッと煮たところで引き揚げてすぐ食う。くれぐれも炊き過ぎはダメよ。
以上、全工程3時間ぐらい。もう少し寒くなれば、この調理の過程すべて灯油ストーブ上でやってしまう。(ストーブでやるともう少し時間かかるかな?)。基本上記で、鰤大根とか、鯛(その他の)アラ炊きとか、粕汁とか、関東煮(「かんとだき」と読みます。「おでん」のことを関西ではこう呼ぶ)とか、ポトフとか、シチューとか、長時間コトコト煮るものに関してはなんでもおんなじように手順踏んでやる。必ずしも最後に同じひとつの鍋に全てが出来上がってなくてもいい。時間差で途中で引き上げ引き上げやるのが、大量の材料を処理するコツね。
ちびちび日本酒飲みながら、引き揚げてはすぐ食うもんもあれば、タッパに入れて明日以降の保存用として冷蔵するものもあり。(冷凍はしません)。で、明日以降は、必要な分を小鍋に取り分け、おつゆと一緒に温め直すのです。卵など落とすときもあり。あとは焼き魚か、揚げたものを買うてくる揚げ物か(基本、自宅で揚げ物はしない)があれば、ごはんのおかずとして十分。
こんなふうに、一人暮らしでも、安い食材大量に買うてきて無駄なく使い切ることに努めてます。ちゃんとしたお料理とはとてもいえないけど・・。貧しいですか?
今夜は綺麗なお月さん。このあとしばらく月見酒に好適な月齢に入るのだけど(二日月、三日月、半月など月齢の浅いお月さんも大好きだけど、帰宅してみるともう西の空に消えかかっているので、お相手としては薄情なんです)、この寒さではベランダで毛布にくるまって月見酒というのもちと無理。お月さんに挨拶だけして、部屋んなかでひとり酒することにします。

Like a carousel that's turning running rings around the moon

『スペインは呼んでいる』The Trip to Spain Dir: Michael Winterbottom

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映画「スペインは呼んでいる」オフィシャルサイト

同じ監督、同じ二人で最初はイギリス国内を回り(『スティーブとロブのグルメトリップ』The Trip (2011))、次にイタリアを回った(『イタリアは呼んでいる』The Trip to Italy (2014))、あのシリーズの3作目で、今回はスペイン。

という意味では全く新味なく、延々続くモノマネ芸の応酬も、もうええて・・って気にさせられるのだが、挟み込まれたフィクションでおっさんらの人生模様の断面と表情を見せ、スペイン現地の風土や表情を見せ・・とやっぱり上手い。

初めの方でスティーブ・クーガンSteve Coogan が口ずさみ、あとテーマ曲になる「風のささやき The Windmills Of Your Mind」。えーと、何の映画の主題歌だっけ?とついに思い出せなかったのが悔しくて・・メロディラインがフランスぽくてフランス映画ばっかり思い浮かべてたけど、え?歌詞は英語?そして歌っていたのがノエル・ハリスンNoel Harrison で、なんとレックス・ハリスンRex Harrison の息子?・・なるほど、メロディはミシェル・ルグラン Michel Legrand でフランスっぽい筈なのだけど(調べてみると元は確かにフランスの歌)、そうや、映画は、『華麗なる賭け』The Thomas Crown Affair (1968)。スティーブ・マックイーンSteve McQueen とフェイ・ダナウェイFaye Dunaway の・・(これは母に連れられて見に行った記憶あり。例の唾液のつながりがはっきり見えるキスシーンで母(←潔癖症気味)が「うわ、きたな」といかにも嫌そうに言い、お子ちゃまのわたしはもやもや分からないながら別の感情を抱いた記憶がある・・)。ああ、だから、クーガンの夢のなかにスティーブ・マックイーンの名前が出てくるのか・・今や映画祭などで呼びあげられるスティーブ・マックイーンは、『ブリット』Bullitt (1968) などの孤高の(イメージの)俳優、レーサーでもあったあの人ではなく、『それでも夜は明ける12 Years a Slave (2013) などの監督であろうけど・・。

スペインといえば・・のドン・キホーテであれ、何か何かとちょっとした知的刺激がこちらをチクチクくすぐる映画。ま、こういうのもいいでしょ。

それにしても・・去っていった恋人がいきなり戻ってきて「やっぱり君のことが一番好きだった」なんて言う・・なーんちゅー夢を一度も見なかったひとがいるだろうか? そのサプライズ、目覚めたときのなんともいえない辛さとともに・・。

概念を変える

よく「〜の概念を変える」という言い方を聞くけど、誰が言い出した言い回しなんだろう?
もう今年も押し詰まってますが、今年あった出会いのなかで一つ、わたしにとって大事な出会いだったのが「フルートの概念を変え」てくれた融解建築さんの坂本楽さんとの出会いだったのですが、昨夜、京都の和音堂さんであったライブで、もうひとつまた、別のやりかたで「フルートの概念を変え」ていたフルーティストさんに出会いました。
なんだか、ね。融解(木造)建築の坂本さんと、昨夜初めて聴いた安田直弘さんって、すごく対照的。いわば表(打ちリズム)と裏(打ちリズム)? 融解(木造)建築さんの方が、それぞれの曲にゆたかなイメージがひろがるような美しい独特の世界を創りあげている(しかも、それが、毎回新鮮なのがうれしい。何度聴いても、同じ曲でも新たな発見がある)のに対し、安田さんの方は、ファンキーでグルーヴィーで、というおよそフルートにはあてはまらないと思ってたブラック・ミュージックの感覚を、ものすごいノリの良いリズムで聴かせてくれました。(MCが面白過ぎるのが玉に瑕。これではまるで漫談ではないか・・ま、それもファンキーの要素ではあるでしょうけど)。
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映画は・・『マリッジ・ストーリー』ノア・バームバック Marriage Story (2019) Dir: Noah Baumbach

en.wikipedia.orgこれもNetflixのせいで1週間限定上映。うう・・なんとか駆けつけました。
アダム・ドライヴァーAdam Driver 好きだわ・・こういう存在感大好き。わたしのタイプの一方の極「大きくて怪物的」にぴったり(たとえばジェームズ・コバーンのような)(ちなみにもう一方の極は「小さくて妖精風」たとえば悲しくて未だにその名を口にできないかの香港俳優さんとかね)。そのアダムの大きなからだが立ちつくしたりリラックスしたり意志的に動いたりあっけなく頽(くずお)れたり・・あらゆる感情の揺らぎをみせて、このうえなく繊細な表情を見せるとき、もう、こいつを、わたしのこの舌で、のこらず舐めとってしまいたいと思うぐらいの、愛おしさだわ(わたしは変態か?)。殊に好きだったのが、嫁の母(こちらも結構長身)のJulie Hagertyと無邪気にほたえるシーン。ええわぁ・・。息子との関係も、それぞれのエピソードの中の身体と身体の関係のありようによってもう見た目で如実に示されるところがいいのね。(なんか、でも、父子って悲しいなぁ・・。この良いお父さんぶりも、またお料理したりするところもめちゃリアルで、アダム自身の私生活もこうではないかと思わず思っちゃう。)ダースベーダー(の後継者)もこの人だから見にいく。その頽れるところが、その表情の(きっと)このうえなく繊細に歪むところが、楽しみで仕方がない。
アダムと並ぶと(顔も体も)めっちゃちっちゃくみえるスカーレット・ヨハンソンScarlett Johanssonも、あああああの少女が(子役の頃からずっとその年齢に応じて活躍してたから)「母」であり「プロの俳優」であり「女」である一個のオトナを、やはりこのうえなく大胆にかつ繊細に演じるところを刮目して見ていました。・・しかし、離婚に弁護士を頼んじゃダメね。ってアメリカ社会の奇怪さを教える教訓もあるのかしらん?(そもそも別れることないやんとか思ってしまう・・)。ローラ・ダーンLaura Dern 良かったですか?なんか『ビッグ・リトル・ライズ』Big Little Lies のイメージがつきまとって離れなかったんですが・・。あと、LA 対 NY というアメリカに昔っからある(ことに映画や演劇の世界で顕著な)対立を物語の構造の中にも、セリフの端々にもうまいこと生かした脚本も秀逸でしたね!