稍ゝおも

ややおもしろく、ややおもたく、jajaのJa,Ja,おもうこと

厄災の年

いまのコロナ騒ぎとて、100年後の人類からみれば、あの当時の人たち馬鹿なことやってたんだねぇ・・とかいうことになるだろうか?(そんなに人類進歩していないだろうか?)

ロックダウンは大して役に立たない? でもヨーロッパではやはり感染者数が増加になるとロックダウンにしている。
マスクなり感染防止には気をつけたうえで、ある程度なりゆくままに任せた方がいいのか・・世界的にみればアメリカ、ブラジルの次はインドでどんどん感染者数が増えてるわけだから、これは人類全体の一定の割合にまで感染が広がるぐらいまでいかないと、ピークは来ないのか?
最初の頃のような大変な医療崩壊は起きていないようだし(たぶん報道されていない医療崩壊とまでいかなくても切迫があるだろうけど)致死率が減ってるようにみえるのは、これはウィルスが弱毒化したわけではなく、おそらく治療法含む対処法が格段に上達したということではないか。完璧なワクチンを開発してウィルスの完全撲滅を図るというよりは、ワクチンだって無害ではないし、どうも抗体が長続きしないという話もあるし、ワクチンが開発されれば一安心よりも、先に、感染しても重症化しないための治療法なり対処法なりをしっかり確立する方が先ではないか。

スウェーデン方式を評価する声は多いけど「高齢者に貴重な医療資源を回さない」には絶対反対。わたしの友達にも「若い人と私とで医療資源を争う事態になればそりゃ若い人に譲るわ」という人がいるけど、その方がなんだか美しく聞こえるけど、それが社会の当たり前になってしまうと嫌だなあ。この新型コロナで高齢者と持病のある人に致死率が高いのはある意味自然であって、そりゃ若い人がバタバタ死ぬような感染症は本気になって取り組まないといけないけど、普通にいまある感染症と同じぐらいのゆるい対策でいいのではないかとの説も聞く。だからといって高齢者を後まわしにするのは、高齢者はどんどん死んでいってくれた方が世のため人のため社会のため・・という例の京都の嘱託殺人の犯人の思想とどう違うのって思う。(ま、そもそもそういうこと言うてられるのは日本という国に住んでる高齢者のたわごとかもしれないが)

個人でできることはできるだけ感染しない、感染させないことに気をつけるだけだけど、まずはPCR検査なり抗体検査なりがもっと安価で(保険の範囲内で)できるようになってほし。全員検査なんて馬鹿なことは必要ないと思うけど。
これからインフルエンザの季節にも入ってくるし今年中の収束は無理か。少なくとも来年1年はかかる?このマスク着用が日常化されたりしたら嫌だなぁ・・。
映画も演劇もコンサートも外食も旅行も少しずつ元どおりになりつつある。
この厄災の年をちょうどすこし立ち止まって考える年にし、身近な人とのかかわりを深めるときにし、人生の(再)スタートの機にした人たちには幸いあれ。

 

 

どこまで意味ある?

よく行く八百屋さん、よく行くスーパー、レジ袋は有料になったけど、これが1枚1円! ゴミ袋買うより安いやーん。
それまでタダでもらってたゴミ袋やレジ袋のストックが切れる前は「袋要りません」で通してきたけど、たちまち普段のゴミ袋に窮するようになり、しかも探してみると1枚1円以下のポリ袋は0.9円のがあるにはあったけど、これが小さくて毎日の生ゴミ用ぐらいにしか使えない。それよりかさばるゴミも出てくるので、1枚1円のお店ではもらっといたほうが得やーんてことになった。1枚2円以上のレジ袋は「要りません」で通してます。はい。
しかし、こういうことってなんの意味があるんだろう?とも思う。お上の決めたことが、本当にどれくらい(どの程度)意味があるのかの検証なしに、否応なく、わたしたちの日常生活が変化を余儀なくされる。「地球環境を守るために」という大義名分のもとに。

でもこれって、「お国のために」という大義名分のもと、無意味な供出、無意味な生活変容、無意味な訓練、無意味な自己犠牲・・などなどお上の命令(や周囲の同調圧力)におとなしく従ってた戦時中の状況とどう違うの?と思う。マスクにしたって・・「新型コロナの感染を防ぐ」という大義名分のもと、新しい生活様式とやらを強いられてみんなそれにおとなしく従っている・・これってどうなん???
この時代を生きる人間の人生の一コマのエピソードとしては面白いかもしれないが、要らんエピソードのような気がするね。

火星呑み

ベランダで風に吹かれながら一杯呑むのが心地良い季節になってきました。

とはいえ、昨日まだ空が青い時間帯に西の空に薄く見えた三日月は早々に沈んでしまって、帰りしなに向こうの空に大きく見えた赤い星は、おお火星!(星のことあまり知らないので国立天文台の「今日のほしぞら」のページで確かめる)。

帰宅してベランダに出てみるとちょうど頭の真上に少し赤みを減じてそこにある。昨夜は闘いの神マルス相手の星見酒でした。いまの季節とて玉川のひやおろし。秋らしい風味です。

・・てなわけで2ヵ月ご無沙汰してすみませんでした。書きたいこと言いたいこといろいろあったのにぃ・・また追々書いていきます。

ことば・・とか

ちなみにイタリア語でマスクは「マスケリーナ」。(あえてカタカナで書くけど)。英語の「マスク」(フランス語でも「マスク」ドイツ語で「マスケ」)にあたるイタリア語(とスペイン語の)「マスケラ」はヴェネツィアのカーニバルなどでかぶるあの大仰な仮面(顔の全面を覆う)を指すので、顔面の半分しか覆わないマスクは、指小辞の「イーナ」をつけて「マスケリーナ」になる。アンジェラがアンジェリーナになるたぐいね。可愛いやんけ!

ある日のレッスンで「うんざりする」みたいな表現を教えてもらい、先生「例文作って」。わたし「わたしはマスケリーナにうんざりだ」。先生「わたしはマスケリーナをつけるのにうんざりだ」と言い直してから「でも『マスケリーナにうんざりだ』でも構わないよ」と言う。ほんまに、うんざりですわ〜!

しかし感染再拡大なのか第二波なのか、東京の、そして大阪も、数値が相当ヤバいことになってると思うのだが、以前にその数値を叩き出してたときの緊迫感が、行政にも民にもないのはどうなん!? あかんのちゃん!?

・・と思いつつ、映画館も飲み会もジムもライブもすっかり(自分に)解禁、もっと行きたい!という勢いのわたしであった。誰か(科学者)の説で、新型コロナウィルスに曝されてから重症化するまでを何段階かで整理してあって、うろ覚えではあるが、仮説の数値を出していらっしゃった。その仮説によれば、日本人の30〜45%は既にウィルスに曝されているが、98%は自然免疫で事なきを得ている。(ただし自然免疫なんで獲得免疫はできてなく、したがって抗体はできてない)。あとの2%は獲得免疫ができるまでになるが、その中でも重症化するのはごくわずか。その各段階で、日本人(アジア人)は、酷い目に遭ったヨーロッパ人に比べて、次の段階に移る割合が低いのだという。感染再拡大というが、そのなかで重症化している人、死者はどれぐらいの割合でいるのか?・・とか考えると、わたしはきっと感染したことあるけど自然免疫だか獲得免疫だかで気づかずにここまで来たクチで、だとすれば、これからも、ウィルスの性質を知って最低限のことに気を遣えば、自分がCOVID-19で死んだり、他人に移したりのリスクはごくごく低いかな?とも思われる。

まー、だとしても、外出先でずっとマスケリーナにはうんざりだけど。

ヨーロッパ語は語源が共通してたりするので似たとこ共通したとこあって、なおかつ微妙に違ってるので面白いですね。ドイツ語の「Angst」がそのままタイトルになった『アングスト』は、英語、フランス語タイトルはそれぞれ違ってたと思う。ところが、同じ語源のスペイン語「angustia」が、たまたまその翌日に見に行った『ラ・ヨローナ 彷徨う女』のエンドクレジットに流れる歌の中で印象的に使われていた。

『アングスト』の怪作ぶりにはもう、脱帽としか言いようがない、主人公のまさしくAngstが、意識の流れではないけど、その狂った理屈のそのまんまの流れで、キャメラワークやカットつなぎ(コンティニュイティ)になり、観ているこっちにまで伝染してくる。

『ラ・ヨローナ 彷徨う女』も、今回はグアテマラに舞台を移し、やはり虐げられる(虐げられた)女の怨みが、虐げる階級の女に侵入し、いろんなひとを狂わせていくありようが、すごく面白かった。

無垢だから?こどもや犬が無事なのが救い?いや、しかしほんまにこれ無事と言えるのか・・?

ところで韓国語は、ハングルがようよう読めるようになった程度の段階で学習ストップしてるので、『マルモイ ことばあつめ』の元・文盲(「盲」が差別語にあたるからか?「非識字者」となってたけど)の主人公の、字の読めるようになった喜びと共に、街中の看板などのハングルを声に出してみては、読めた!と喜ぶレベルなのだが、その主人公は読み方わかればすぐ意味もわかるけど、わたしは読みかたわかったところで意味わかんないもんね。しかも、たとえばひらがなの読み方覚えたての幼児が一つ一つの字母を拾い読みする程度の速度でしか読めないので、エンドクレジットとかとてもついていけん・・。これはよっぽど集中して勉強しないと無理かなぁ・・。とはいえ、日本語の「かばん」にあたる言葉は、韓国語でも「カバン」と発音するのだと知り、え、これって語源はなんだろ?とか思う程度には聞き取れるのでした。むしろ話し聞きの方から入る方が韓国語は身に付くとも聞く。若い人はすぐ上達するってよ。

マルモイ ことばあつめ、いろいろ不満はあっても、やっぱり見とかんといかんかなと思う。そういえば、韓国語あんまり知らなかった頃にも、韓国語のニュースにやたらめったら「ウリナラ」という言葉が聞こえてくるなとは気づいてた。ことばは国民の精神も映すのである。

『アングスト 不安』(1983) 監督:ジェラルド・カーグル

Angst (1983) – Wikipedia

『ラ・ヨローナ 彷徨う女』(2019)  監督:ハイロ・ブスタマンテ 

en.wikipedia.org

『マルモイ ことばあつめ』(2019) 監督:オム・ユナ  出演:ユ・ヘジン、ユン・ゲサン

ko.wikipedia.org

美術館通い

美術館通いが続く。
一昨日は中之島香雪美術館。もとの香雪美術館は知っててここに分館ができたのも知ってたけど、ちょうどコロナ禍のせいで当時持ってた招待券を無駄にしてしまったことがあり、今回初めて訪れることになる。コレクションの中から茶器や絵画の名品展。わたしは茶の湯の嗜みがなく、その文化にまつわる固有名詞についても不案内なので、なにが貴重で何がそうでないかはとんとわからないのだけど、それぞれの「もの」のたたずまいだけは、わかるような気がする。佳い展示でした。それと、ここのコレクションのもとになった朝日新聞社主・村山龍平について。ちょうど七藝でタゴールの歌についてのちょっと良い映画をやっているが(『タゴールソング』)そのタゴールが来日したとき、村山邸に招かれてお茶会をやったのね。よく考えるとそう驚くことでもないかもしれないけど、なんだかちょっと感慨がありました。
そして、昨日は金沢まで。既に予約してあったので、大雨大風でサンダーバードが止まったらどうしよう?と心配したけど、北陸路は大したことがなかったようで、無事に行けてよかった。金沢21世紀美術館内藤礼「うつしあう創造」展。ものすごく繊細な作品を作る作家なので、よくよく注意して見ないと作品の存在まで見落とすかもしれない展示だったけど、白を基調にした建物やお部屋のなかで、庭を吹き抜ける風、雲の多い空から漏れる日光、部屋の中にいる複数の人々の気配や、わたし自身の動き・息、電熱器で温められたわずかな空気の動き、滴る水、それぞれを敏感に受け止める展示がすごく良かった。ちょうど夕方の時間帯に行ったおかげで、自然光の中での展示と、夕方5時以降、照明が変わり小さな太陽に灯がついてからの展示と、二度味わえておトクでした。「5時から照明が変わりますよ」と教えてくれたのは、お部屋お部屋の監視員をしているスタッフの方。訪れるたびに思うのだけど、ここのスタッフの方々感じいいな。なんだかいかにも地元の善意が溢れている感じです。今回の展示のハイライトは、作家がよく作る「ひと」のちいさな彫刻を、変形の大きなテーブルに並べた作品。それぞれのちいさな「ひと」が、それこそソーシャル・ディスタンスを思わせる距離を取り、思い思いの方向を向いてたたずんでいる。それぞれのからだの表面まるごとで、自分の位置から遠かったり近かったり、いろんな距離にいるほかの「ひと」の生きる気配を感じ取りながら、関わりあいながら、生きている、この世界のありようを見せてくれているようで、それが作家の世界像を表現しているようで、ちょうどいまの時期に見るべき展示ではないかと思わせました。
内藤礼さん。個々の作品はいろんなところで見てきたけど、なんといっても圧倒されたのは、瀬戸内の豊島にある「母型」という作品。がさつで粗忽なわたしは、あちこちから湧き出て思い思いの方向に流れ、それぞれの水系を作っていく水を踏んづけたりしてしまうのけど、その世界をまた体験しに何度でも行きたいと思う。ここ数日の大雨禍、いくつもの河川が氾濫してたくさんの方々が被災している。本当にお気の毒です。気候変動もあってか毎年毎年どこかで大水が出るようになったこの国で、きっともっとふだんから水との関わりあいを見直して気をつけていかないといけないんだろうなあとも思う。
内藤礼さんの作品に関してもう一つ言うと、最近よく目にするHSP(Highly Sensitive Person)というターム。心理学や精神分析やらの世界でようもまあ次々といろんなタームを発明するもんだと思うけど、これで救われる人がいるのならまあいいんじゃないかと思う。自分の「生きづらさ」に、なにか名前を付けてもらったわけだから。内藤礼さんの世界なんて、まるきりこれだもんな。HSPという概念を知ったのは、知人のひとりからだったけど、その彼女は相当高レベルでこの症状にあたるらしい。とはいえ、いろんな解説本などを見ると、わたし自身もその知人ほどではないけれど、中程度のHSPにあたるかもしれない? でもある本にある説によれば5人に一人がそれなんだそうで、だったらわたしも普通にそれやん! それどころか、わたしの親しい知人友人見渡してみて、それじゃない人(センシティブではない人)の方が少ないぐらいなんちゃん?と思うと、これってなんなん?とも思う。とはいえ、まあ中程度のSensitive Personとしてのわたしの感性からも、内藤礼さんの世界はほんとうに快くて、ホッと安心できて、世界がこれほど繊細であってくれれば(というかこれほどの繊細な感性に敬意を払ってくれれば)と、思います。
そして今日は、天王寺大阪市立美術館「フランス絵画の精華」展。これはもともと行く予定してなかったけど会期が延びたし、まあ見てみようかなと。17世紀から19世紀まで「フランス絵画」と言ったときのフランス絵画の王道の流れが辿れて、充実した展示でした。特にデッサンが良かったな。このあたりの画家たち、なにかその名前と様式だけで見てしまいがちだけど、それぞれの画家らのそれぞれの個性や資質がデッサンにふと出る感じがして思いがけなく良かったです。
あと、伊丹とか姫路とか京都とか行きたい特集展いっぱい。今月中に行けるかな?
   *
それにしても新型コロナ、東京でまた200人超えだという。大阪でも30人超え。首都圏と近畿圏で緊急事態宣言また必要なんちゃん? いや、しかし、自粛自粛と喧しく言ってたわりにステイホームの効果が実は怪しいとも聞く。(素直に蟄居生活してたのに・・)。「夜の街」とはいかにも差別的な呼ばわりかたではあるが、しかしやっぱり難しいだろうなぁとは思う。映画館とか美術館とか基本的に一人一人黙って鑑賞してるだけとはちがって、近接しておしゃべりしたりすることが商売の中心になるだろうから・・。今はやたらめったら警戒が過ぎるだろうという場所と、もっと警戒した方がええんちゃん?てところが混在してるので、それをなんとかしないといけないのではないかと思う。思い切ってもっと補償を出して、やっぱり閉めるところは閉めた方が・・。とりあえず首都圏と近畿圏の人たちはよその地域に行ったりしない方がええんちゃう? そういうときに政府はGoToキャンペーンとか訳のわからないことし始めておるが・・。世界的にもアメリカとかブラジルとかあまりに警戒しなさ過ぎでまだまだ拡大続きそうな地域もあるし・・。ヨーロッパはどうする?最初の頃のように厳しいロックダウンはやらないにせよ、また二次感染に備えて部分的にロックダウンをするんだろうか・・? 何よりもこの鬱陶しいマスク生活をいつまで続けないといけないのか? このコロナ禍が、収束したといえるのはいつになるのかわからないけど、ほんとに最後の最後までどうなることやらわからない。

ハニーランド

半月月見酒。空気が湿気てるせいか?月の色が心なしか黄色い。これからまた十八夜の居待月頃までベランダでの月見酒好適夜が続く。梅雨だから見られない夜もあろうけど・・精々愉しもう。しかし、いつまで続く?ひとり月見酒よ。

(日付が変わってしまったのでいちんちずつずれるけど)一昨日、昨日と、ひさびさ川端散歩に出かけた。一昨日は大川端を、昨日は淀川沿いを歩く。StayHome期間中には毎日のように出かけた長足散歩だが、自粛解除になり、仕事先での仕事もそれなりに戻ってきて、都心に出かけついでに映画見て帰ってくるという日常が戻るにつれ、サボりがちになった。しばらく遠ざかっているうちに夏の草花のいくつかを見逃してしまったようで、梔子(くちなし)など一重も八重も大好きなのに、もう盛りを過ぎてしまっている・・。まだ香りは高いけれどね。一昨日は大きな蓮の蕾がいくつも並んでる池を見かけたので、この花咲く頃は見逃さないようにしよう。

それにしても、朝夕の比較的涼しい時間帯を選んでさえ、この蒸し暑い時季の散歩は辛い。6月からジム(スポーツクラブ)は再開していたのだが、受付のバイトをしている友人によると、更衣室がやばい(更衣しながらみんな至近距離でおしゃべりする)というので、6月いっぱいはまだ休会にしていた。7月からはいよいよ復帰かな? 言うても、日本の第二波は50人とか60人とかそこらのレベル(東京アラート出さんかい!)、フランスとかドイツとかの1000人単位、アメリカの万単位とは桁がちがうもんなぁ・・。抗体の保有率も思ったより低い。いや、だからこそ、警戒しなきゃならないんだという声も聞くけれど・・。経済がまわりはじめ、みんな自粛疲れしているこのときに、世界的にはまだまだ感染者が増えているんだから。

映画は『ハニーランド』がものすごかった。これ、ほんまにドキュメンタリー? 展開がドラマチック過ぎるんですけど・・。それに映像の美しさがただごとではない・・マケドニアのごつごつした風土と、蜂の刺す痛みと蜜の甘さと、天然の蜂蜜の価値と持続可能性とが、ドラマと映像の両方に大きく関わってくる。そこに置き去りにされる主人公の孤独が身につまされる、以上にじんじん沁みてくる・・。

マケドニアの山の中で、ただ淡々と営々と自然を相手に生きていくだけなら、独身女のまま年老いても、ひとりの気力・体力が続く限り生きていけるのかもしれない。髪を染めて少しおしゃれもして。愛されることなどなくても。しかし母がいる。毎日顔つきあわせてると些細なことで苛立ち諍いになる。(だけどお互いなしでは生きられない)。そして隣家がやってくる。家畜の扱い、家族の扱いに殺伐としたものがあり、不穏な予感しかしないのだが。そして大人数のきょうだいの中に必ず一人はいるものか、聡明で優しい子どもが一人だけいるのだが。こんななかに欲得ずくがしのびより、引っ掻くだけ引っ掻き回した末に・・。けっきょく誰からも愛されない(猫さえあまり懐いていないようにみえる)無骨でぶきっちょな彼女が一人取り残され、しかし哀れには見えない、ひ弱ではないだけに、余計に孤独が沁みるのだ。このまんま生きるだけ生きていくしかない?

え、これって誰のこと?

『ハニーランド 永遠の谷』リューボ・ステファノフ、タマラ・コテフスカ 

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『その手に触れるまで』と『ヴィニルと烏』

夏の持ち物。晴雨兼用傘、扇子、ショールまたはカーディガン、水筒、ハンカチまたはタオル、ティッシュ、今年はこれにマスクが加わり、あと、いつもの財布だのカードケースだのスマホだの鍵だの眼鏡だの筆記用具だのイヤホンまたはヘッドホンだの本だの、必要に応じてパソコンとかノートとか・・出先によってはいくつか省けるものもあるしもちろん加わるものもある。
で、いつも何かかにか忘れて出る。エレベータの中とか行きしの道で気づいて、あ、戻るのもう面倒と思ってそのまま出かけたり。むしろ完璧な状態で出かける方が少ないのではないか・・。
そして、出先や帰途で何かを忘れてきたり・・。傘とか扇子とかハンカチとかでは、自分が大事にしてるもの(もしくは入手価格が比較的高かったもの)に限って、なくすことが多いんだよなぁ・・。わたしはわりとしつこく、例えば電車の中とか映画館とかにものを置き忘れたときなんかも取りに行ったりするのだが、良いものの場合、置き忘れた場所とか時間とかが記憶に残っていてさえ、出てこなかったことがある。つまり、誰かが取っていくのであろう。ま、その誰かのところで無駄なく活用されていれば良しとする。(しかしケチのわたしは悔しい)。
あ、そういえばわたしのところに届いたアベノマスク(事務所にも届いてたから計4枚)、友人の家に届いたやつも合わせて、活用してくださるという団体に送った。なんだか不用品を(しかも衛生的に問題ありそうな代物を)送りつけたようで気が引けるけど、もし活用してくださるというならそれでいいだろう。
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新型コロナ禍、世界的にはまだまだどんどん感染者も死者の数も増えつつあるのに、第一波が過ぎたと見做された国々では自粛解除の動きが広まっている。まだ早過ぎる!と危惧する声も聞こえるが、それなりの犠牲は伴いつつも経済は少しはまわしていく方がいいのか・・歴史的にどう判断が下されるのかわからない。
それにしても日本の施策は酷過ぎるな。東京でまた50人越えしてるというのに、あの東京アラートやらはどこへ行ったんだ? それに専門家会議、当事者にまるっきり知らされず勝手に解散させられたとか。なんなんだこのやり口は? 維新をいただく大阪も、首長がテレビで顔売ってる(=何にもやってない)スキに、10万円給付は遅れるわ、づぼらやみたいな地域の名店が廃業していくわ・・(ニュースにならない店がいっぱい潰れてる。近所でも)。
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アップリンク問題は根が深いと思う。以前には書かなかったが(後出しジャンケンぽいけど)浅井さんからの謝罪メッセージが出たとき、すぐに思ったのは「早過ぎる」ということだった。なんだか、面倒な問題はさっさと片付けてしまって、早く自分本来のペースに戻りたい。そのためには下手に抵抗せず全面降伏の形を取っといた方が得策・・みたいな、利己的な意図が透けて見えたから・・。ただ、そんなふうに他人の意図を勘ぐるのも良くないかなと思ったし、そのあと出てきた具体策を評価している向きも(同じ業界の人で)いたので、その時は書かなかった。

原告側からあらためて声明が出て、ああやっぱり・・と思ったけどね。このたびは原告側を全面的に支持しますわ。

自分に非はない(正しい)と(どこかで)思ってる人は、口先だけで反省とか謝罪とかはいくらでもするのよね。一刻も早く告発を免れたい(自分にとって不利な状況を脱したい)という利己的な動機から。もちろん本当に反省しているわけでは毛頭ないから、自分が好きにしていい局面に戻れば、やっぱりおんなじことしてしまう。DVやる人ってほぼこれ。いじめやDVの加害者は、被害者にも悪いところがあって自分はむしろ被害者だと思ってる人がすごく多いらしいし・・。人間って「変わる」ことが本当にむずかしい。特に自分の側に正義があると思い込んでる人間は・・。(わたし自身だってそうだけど。)

ダルデンヌ兄弟の新作『その手に触れるまで』で、自分に圧倒的な正義があると思い込んでいる少年もそうで、一刻も早く義を貫くための行動に出たいから、口先だけで周囲を騙すなんてこと平気でやる。(師のやりかたを正確になぞっているのだ。)予告篇ではこれが救いになるのではないかと思わせた、少女との思いがけない邂逅(この少女もすごい!)で動揺しまくる少年の表情が素晴らしいのだが、やっぱりダルデンヌはぬるい展開は用意していない。自らに義があると信じる少年はなかなか変わることはできない・・。邦題が匂わせる「救い」が本当に訪れたものかどうかは、わからない・・。

『その手に触れるまで』監督:ジャン=ピエール・ダルデンヌリュック・ダルデンヌ 

Le Jeune Ahmed — Wikipédia

アップリンクは、やっぱり浅井さんがトップを退かなければ収まらないと思う。だけど、浅井さんのレガシーというか、ここまでやってきたノウハウとか映画への鑑識眼とかを活かすかたちで、アップリンク自体は続いて欲しいなと思う。野次馬が無責任に思うことでありますけどね。

実はこないだも行ってきたのでした。アップリンク京都。大阪で見逃したものがあったもんで。で、これもまたいじめを主題にしていたところが、なんとも皮肉すぎますが・・。

『ヴィニルと烏』監督・主演 横田光亮 

いじめは残酷であからさまな強者による弱者の「つつき」(集団にある「つつきの順序」)にほかならないんだけど、だからって弱者がそれに対抗するために「強くなる」ことが有効なのか? そうはいかないんだよね。冴えざえとした映像の美しさが、その残酷さをきわだてる秀作でした。

それにしても『許された子どもたち』もそうなんだけど、こういういじめ映画って、いじめられる側を演じた子どもよりも、むしろいじめる側を演じた子どもたちにトラウマが残りはしないかと心配する。