稍ゝおも

ややおもしろく、ややおもたく、jajaのJa,Ja,おもうこと

これは寓話ではない

昨年後半ブログ更新を怠っていたこともあり、しばらくのあいだ昨年見た映画の振り返りをやります。よくベストテンをやる人見かけるんだけど、なんか順位つけたくないというのもあり、印象深かった映画を思いつくままポツポツあげていこうと思います。

まずはこの2作

『バクラウ 地図から消された村』Bacurau (2019) Dir: Juliano Dornelles, Kleber Mendonça Filho Cast: Bárbara Colen, Thomas Aquino, Silvero Pereira

『異端の鳥』The Painted Bird (2019) Dir: Václav Marhoul Cast: Petr Kotlár, Nina Sunevic, Alla Sokolova

番外2作という感じです。そしてどちらにもUdo Kier 様(必ず「さま」付)が出ておられるのは何故?こういう映画がウドさまを呼ぶのか?ウド様がこういう作品をわざと選んで出ていらっしゃるのか??

それはともかく。特に前者が(『ミッドサマー』のヒットを受け同じく怖い共同体ものの文脈で売れると思われたか・・)なにやらゲテモノ扱いされたのは気の毒でした。しごく至極真面目な映画です。ブラジル映画、先日書きかけた「ピアノを燃やす映画」part1もそうだったのですがMUBIで特集やってる。いま勢いすごいですね!この作品、真面目に加えて、マカロニウエスタンであり黒澤明でありちゃんと(藝術であるとともに)娯楽映画であり正統な映画の歴史を踏まえた上で、この上なく現代的な素材を扱っています。

後者も「呪われた」と枕詞がつく Jerzy Kosinskiの小説を下敷きにしていて、よくある腑抜けたナチス時代の善意を描いたほのぼのユダヤ人ものへの鋭いアンチになりつつ、描かれているのは「現在」だと思う。

何が言いたいかというと、両者ともほんまにえげつないシーンえげつない描写が続き、えげつない人間像が出て来、あまりのえげつなさに、つい作品を評価するときに「寓話的」という形容詞が付けられるわけですが、「寓話」と言っちゃうことによって、この2作が描こうとしている何やらリアルな恐ろしさが遠のいてしまうように思う。

この2作、「寓話」どころか、ありありと今の世の現実を描いているんですよ。観客は正視し難いシーンの連続をみて、今の世界を席巻するある「現実」を目にし、それにショックを受ける。まだご覧になってない方は、しっかり刮目してスクリーンを見つめていただきたいと思います。

 

音楽ライブ

もう今日は大晦日だけど、以下書きかけていたやつ。まず投稿してしまいます。

12月26日27日の週末は今年のライブ納め。思えばこの春、クラスターが出たというので「ライブハウス」が何かと目の敵にされた時期を経て、ようやくあれこれあちこち動き始めた。観客めいっぱいには入れず、そのぶん配信というかたちで多くの人に見てもらったり、工夫を凝らしながら、来年はもっともっとたくさん素敵なライブが見られますように。いつからか、映画だけでなく美術も音楽もダンスやお芝居やあらゆるパフォーマンス藝術もライブで見ずには生きていられない身体になってしまいましたもので・・(今年はさらに「演らずには・・」も加わる。これまた別のエントリーで書きます。)

で、26日。よくお邪魔している(展はほぼ見ていると思う)ヨルチャさんにて《師走に笛師集う》というライブ。ケーナの岩川光さんとフルートの坂本楽さんとのがっつりデュオなのだけど、観客席にもプロの笛師の方々が集っていたという・・。

坂本さんはいつものモダンフルート(普通のフルート)に加え、ピッチ(音程)が今よりほぼ半音低いバロック時代の古楽器フラウト・トラヴェルソ」(イタリア語で直訳すると「横笛」。今イタリア語でflautoというと普通にフルートのことなので、昔は縦笛(今のリコーダー)が普通のflautoで、今フルートと呼んでるやつにはわざわざ「横」traversoをつけて呼んでたことになる)を持ち(当時の古楽器オリジナルでなく精巧に作った写し。もちろん木製)、岩川さんは自分で作ったケーナ二本、一本はバロックの音程と音階(平均律ではない!)に合わせたもの、一本は現在の音程のものを使い、二人でバロック音楽から現代音楽、オリジナル曲に至るまで吹きまくると・・。

いやはや・・岩川さんはケーナ(南米ペルーやボリビアあたり発祥の縦笛)を駆使してソロだけでなくあらゆる楽器とのデュオを試み、あらゆる音を奏でる試みをしているのだが、そのふくよかで豊かな響きの楽器からこのたびはバロック音楽(しかもあまり耳にする機会のない楽曲)が正確に優雅に奏でられ、対する坂本さんのフルートもものすごい技巧と激しいテンションとをもって奏でられ、現代音楽やオリジナル楽曲も先鋭的かつ繊細で、もうもう「凄い」としか言いようのない演奏でした。こんなの、この場限りでしか聴くことのできない・・なんだか新しい音の世界の始まりに立ち会ったようでした。(我ながら音楽を語る語彙が貧困だけど・・)

翌27日は、天満橋のライブハウスRAW TRACKSにて変拍子プログレロックバンドの眞九郎とフルート+ピアノデュオの融解(木造)建築。聴き慣れた曲を昨夜のバロックピッチのフラウト・トラヴェルソで演奏という余録も加わり、融解(木造)建築に松浦眞九郎さんのギターの飛び入り、アンコール曲は眞九郎に坂本楽さんのフルートの飛び入り、いずれもめちゃカッコいい即興を聴かせてくれました。まだ配信があるそうなのでぜひお聞きになってください!
木造でない融解建築さんはこの12月5日に東京でソロライブがあり、久々だったこともあってか、これもすごいテンションで力のこもった素晴らしい演奏(新曲含む)を聴かせてくれました。が、メンバーのご事情でしばらく全員が揃うことは難しいそうで、次のライブが待ち遠しいです。

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映画のメタ情報

関連情報入れないという意味では、そういえば、私は基本的に映画雑誌の類を買わない。昔っからそう。スターのファン雑誌も小難しい映画評論雑誌も買わなかったなぁ・・(例外はあるけど)。また、上映に伴う舞台挨拶とかトークショーとかの類も、逃さず行くという友達もいるけど、わたしはできれば避けて通りたい(これも例外はある)。「ああ時間の無駄だった」と後悔するやつ(これが残念ながら結構あるんだ)は別としても、作品にまつわる周辺情報や知識とか製作秘話とか、あるいは批評的視点とか別の切り口とか、役に立つ情報を得られる類も多いけど、まあそういう情報を得られたら「ああ良かったな」とも思うけど、だからと言って当の作品を見るのに絶対に必要な情報とも思えない。シンプルにただ作品を見てその作品の内から得られること(その時点の自分に感得できること)だけを楽しんでそれで終わりという見方でええんちゃんとも思う。なんというか・・世の中メタ情報が多すぎてその多すぎに少々うんざりしてるというのもあろう。批評は批評としてそれが独立して一つの作品であるような批評はちゃんと読むけどね。
もちろん全ての情報をシャットアウトしているわけではない。自然に耳に入ってくるし、有用な情報やおもしろい情報なら取り入れるし。とりわけまだ見ていない作品を「見る」「見ない」と決めるためのフックになるのは、その見る目に信頼を置いている映画友達や評論家などが言ってることであることもままある。

事前情報はあまり入れない

映画を見るときは(何を見るときでも)前情報はあまり入れずに見たい。見て初めてそのとき見つけることの驚きを楽しみたいから。
ある日、MUBIを見てるとそれと知らずに「ピアノを燃やす」映画を続けて2本見ちゃったぞとか。(狙ったラインアップか?)
その2本目が1968年製作の映画だったんだけど、その直後にYouTubeで見た映画がやはり1968年製作だったとか。(これはただの偶然)。
昨日見た日本映画で「これは絶対ともやくんの声にちがいないと思ってたら別のともやくんが出てきてびっくり」とか。(狙ったキャスティング?)
こういう時に映画のタイトル言っちゃうと、その映画をこれから見る人の「見つけてびっくり」の喜びを削いでしまうかもと恐れるのね。だから言えないのが辛いところなんだけど・・。厳密には「ネタバレ」ではないし。
上に触れた映画のタイトルは明日の記事に書きます。

最悪の年?

12月21日の昨日が冬至、木製土星の大接近というのがあり、日が沈んでから南西の空が見えるところまで大急ぎで移動して探した。月はちょうど半月ぐらいか。今日もまだ青い空にもうかかってる。
ふと気づくと12月恒例の梅田ガーデンシティのクリスマスマーケットが今年は中止、大きなクリスマスツリーも立っていない・・。昨年と較べるとなんという違いか。ほんまにこの2020年というこの年は世界的に厄災の年だったね。その年も暮れようとしているわけだけど・・新型コロナウィルスはヨーロッパやアメリカでますます猛威。感染力の強いイギリス型というのが出現してるという。日本は相変わらず、というか、首相が代わってますますひどくなったと言うべきか、政治の劣悪ぶりひどいけど(夫婦別姓とかそういうのもあわせて)、民がそのぶんしっかりしているせいか?幸い感染規模は欧米などと比べると比較的マシで、しかし医療崩壊は既に始まってるし、この先予断を許さない。ワクチンどうなる? 来る2021年もみんなマスク姿か?

それでもあれでもこういう年だからこそのあれこれもあった今年。新型コロナのおかげなんてことは言いたくないが、身近なもののありがたさをあらためて噛み締める年になったかな。

ブログサボってたけど少しずつ今年の振り返り記事書いていきます。

月見酒(今年も)

月がだんだん肥っていく。半月から十七夜ぐらいまでがうちのベランダからの月見酒好適夜。もちろん先月の仲秋の名月前後が気候的にも最適かな。いまはちと寒い。もう来月は無理かしら・・(それでも毛布にくるまりながら見ていたりしますが)。

お酒はこの季節とて「ひやおろし」。軽く温めるのも良し冷やでも良し。大吟醸とかの冷やして飲むタイプは先月までかな。

あては簡単なものばかりだけど・・。こないだ料理のうまいお友達に、しめじでもえのきでもなんでもきのこ類は笊に広げて軽く日光浴させてやると旨味がギュッと凝縮されて美味しくなるよと聞かされて、そればっかりやってる。なるほど干椎茸(になるまでは干さないが)の原理か・・。大量に買ってきて日光に当て下ごしらえだけして保存しておく。和風にも洋風(主にオリーブオイルとあわせてイタリアン)にも・・。

それにしても去年の秋の風景となんと変わったことよ!いや、人間の光景が。みんなマスクして街を歩くのが普通になっているし、世界中で感染拡大してるので海外旅行なんて夢のまた夢だし。小さな飲食店がずいぶんつぶれたし、わたしの身近な人々はなんとかみんな生きてるけど、食い詰めている人も多いんだろうし・・。

ライブや演劇がそろそろ再開しているのは嬉しい限り。とはいえ、客数限ったりと恐る恐るではあるし、まだ人が集まるところは怖いという人もいて、客の入りはそこそこだし・・。尼崎でやった青年団プロデュース作品『馬留徳三郎の一日』人の記憶と意思、他人(ひと)への振る舞い、言説、ホントと嘘、真と偽、あるいは擬、などが交錯し、老いと若きが交錯し、これからの超高齢化社会の寓話かと思わせる面白さだったのに、観客少なくて気の毒でした。ライブは、十三の風まかせ人まかせでやった融解(木造)建築、中崎町のヨルチャでの「お昼寝ガムラン」、京都アバンギルドでの大友良英×中川裕貴×山内弘太・・などなど。好きな音、素敵な音、刺激的な音、リラックスする音・・音いっぱいの空間にゆったりと身を委ねてしまうのがなんとも快い。音楽はやっぱりライブに限るね!

映画はもちろん『スパイの妻』に『本気のしるし』。これも青年団関連で『アボカドの固さ』。ドキュメンタリー系ではもちろん『死霊魂』『ぼくが性別「ゼロ」に戻るとき〜空と木の実の9年間〜』。あと『イサドラの子どもたち』ももちろん良かったのだけどあわせて上映してた同じダミアン・マニヴェル監督の作品たちがどれもものすごく良かったね。さて、これからはペドロ・コスタも小田香も控えてる。東京には『繻子の靴』だけはなんとか見に行くぞ!

この流れを食い止めないと・・

中曽根の"国葬"にずらり並んだ自衛隊の制服見て「背筋がゾッとする」と思った人、多いと思うけど、そりゃ「ゾッとする」という方が正しい感覚。どう見てもナチスとか北朝鮮とかスターリンソ連とかしか連想しない。おまけに各方面に弔意を要請し(強制はしていないというが「恫喝」だろう)それに唯々諾々と従った向きがいる・・。

アベ政権もひどいと思ったが、スガになるとそれに輪をかけてどんどん一党独裁化している・・。グループインタビューとやら、自分に対する批判的な質問は一切許さんぞというスガの小心さを見せていっそ滑稽ではあるが、同じような小心さがスターリンの行った粛清の嵐の契機だったことを思えば、昔っから自分の意に沿わない者を外しまくって来たというスガの陰険さを見過ごしてはいけないだろう。

学術会議のことにしたって・・実は問題は至って簡単「任用権の濫用」だけでしょ。天皇内閣総理大臣の任命権があるからといって天皇が「次の総理大臣候補は自分好みではない。任命しません」と言うてるようなもんやん。その部分だけが全てなのに、論点をずらしまくること。

DVで「夫が妻を殴った」。その「夫の暴力」がいけない、で終わりなのに、妻の側に問題があったからと言うてるようなもん。たまたまその妻が学者の団体だったからといって、妻の方が「学問の自由の侵害」を問題にするのはええとしても、その学術会議のありかたが問題だと夫の側が妻のあり方にあれこれ文句言うのはどうしたって間違ってるでしょ。まずは暴力を正せ。(つまり「任命拒否」を引っ込めろ)。

これに対するいろんな学者さんたちの言うこと、世界の雑誌や新聞などの言うことも含めて、本当に真っ当な意見しかないのだけれど、これに対し「学者憎し」のデマをばらまきまくって、逆にこれを非難する人々がいるというのも・・(特に橋下のコメントにはのけぞった。この人大衆迎合主義なのでおんなじように思っている層が一定数いることを見越してそういうデマをばら撒いているわけだ)。つまりは殴られた側の妻を非難する向きが複数あり、またそれに同調する人々がいるようなもん。ここもDVに似ていて「妻は夫の稼いでくる金を使ってのほほんと暮らしてるだけだろ。そのくせなんでエラそーな顔して一人前の口聞いてんだ」と、もの言う女性たちを非難する男たちとおんなじセンスで、「学者なんてお国からたっぷり税金もらって役にも立たない研究してのほほんと暮らしてるだけだろ。そのくせなんでエラそーな口聞いて庶民をバカにしてんだ」というような恨み辛み憎しみ・・。そういう憎しみを持っている層が一定数いるのもものすごく嫌な感じで、反知性主義がここまで広がってるのかと思うと・・。トランプのアメリカを嗤っていられない、習近平一党独裁恐怖政治を非難してばかりはいられない、明日は我が身。いや、もう、日本ていう国はそうなっているのか・・。こんな政権を支持している人がまだ半数以上いるなんて・・。

しかし反知性主義につける薬は・・なんなんだろ? 学者さんたち、一部をのぞいてそんなにええ暮らしをしているわけではない。庶民を搾取しているのはインテリ階級ではなく資本家階級でしょ(いま政権にいる人たちやそのおともだちの企業トップらとか)。むしろ博士号取ってもワーキングプアを脱しきれない人々がいる世の中だもの。頭が良い人、常人には届かないようなセンスを持ってる人、学者やインテリや芸術家を大事にしないとその国は滅びますぜ・・。

このかんひまなのでいろいろ映画見たり演劇見たり美術展や写真展見たり、ホントはそんなこと書きたいのだけど、これだけはやっぱり書いておかねばと・・書きました。

ほんとに切実に、いまの日本、おかしいと思う。この流れを食い止めないとほんまにどこまで行ってしまうのか・・