稍ゝおも

ややおもしろく、ややおもたく、jajaのJa,Ja,おもうこと

センチメンタルのかたち

いちんちに2本、3本と映画をハシゴするとなんかその日のテーマみたいなものが出てきてしまうことがあります。これはある日の3本ハシゴ。きっかけは歌謡曲

 

『君は行き先を知らない』Jaddeh Khaki (2021) Dir : Panah Panahi

Hit the road という英語タイトルからして当然

Hit the road Jack and don’t you come back no more, no more, no more, no more.

の歌を思い浮かべるのだが、映画内ではほんの一瞬口ずさまれるだけであと聞こえてくるのはイランの歌謡曲?ばっかり。多分イランではみんな知ってるポピュラーな音楽なんだろうなぁ・・母が歌いあげたりするその歌謡曲に乗せて描かれる母の愛だったりうるさい弟だったりちょっと構えた父だったり犬だったりその家族の関係だったり、道道出会う人たちだったり(みんな結構強引だったり自己中だったり親切だったり不親切だったり)・・コミカルでちょいとホロリとさせるこれはイラン式センチメンタリズムなんだろうなぁ・・人情噺?とはいえ湿っぽくなくて辛辣でもある。

 

『春に散る』(2023) 監督:瀬々敬久 出演:佐藤浩市, 横浜流星

これはもうファーストショットからして「うわぁ・・日本的センチメンタリズムや」とわかる。いやタイトルからしてわかるべきよね。歌謡曲ではないけれど西行法師の有名な歌「願はくば花のもとにて・・」というあれよ。(この歌を知らん人は知っておくように。日本人たるもの?)

ボクシング映画にどういう解を与えるかによってその監督の資質が一番よく見えるのかもしれない。阪本順治だったり三宅唄だったりマーティン・スコセッシだったり・・

瀬々さんの解はこれだったと。でも堂々としかも丁寧に作りこんでて嫌いではない。

 

『ソウルに帰る』Retour à Séoul (2022) Dir : Davy Chou

これはもう最初のタイトルから韓国のド歌謡曲が流れ(日本の歌謡曲とよう似てる。耳を澄まして日本語じゃなく韓国語なのを確かめないと)、その歌謡曲に導かれて物語が始まっていくんだけど、中身はこれはもうセンチメンタルのかけらもない、というかセンチメンタルを禁じられたキッツいキッツい・・祖国や父母との関係性の物語でした。字幕はフランス語と英語がカッコなしで韓国語セリフがカッコ付き。主人公にとって韓国はよその国よその言葉、自分はよそ者(ここにルーツがあるはずなのに)。監督の視線が息苦しいほど主人公にまとわりつき、特に求めてもいなかったはずなのに絡みとられていく父母の絆(あるいは縁?しがらみ?)のぎりぎり締めつける圧力よ。ある場面で彼女がそのときのボーイフレンドに言い放つ「あんたなんて一瞬のうちに私の人生から消してしまえるんだから!」のセリフが痛くて・・それを言わずには、男たちや周囲をそんなふうに扱わなければ精神の均衡を保てない..。韓国人養子の話は何かのドキュメンタリーでも見たな。それぞれに事情がありそれぞれの人物の実存もあるわけだけど・・。

 

科学的に安全?

日本が海洋放出を決めた「処理水」は科学的根拠に基づき安全であることを完全に実証されている。それに対して反発したり疑問を抱いたりする国だったり国民だったりは「科学的でなく」ただ感情的に反発している・もしくは嫌がらせで禁輸措置など行なっている・・

という論調の国内ニュースに唖然とする。「科学的根拠に基づき完全に安全であると実証された」の部分を強調すればするほど、本当はそうは思ってないでしょ?が透けて見えてくる。「汚染水」と失言して総攻撃浴びた某閣僚さんのようにね。

こんなん完全に国内向けでしょう。国内のよっぽどナイーブな(「繊細な」の意味でなく「無知な」という意味です)人々か、政府の言うことは完全に正しくてそれに少しでも逆らう人は「非国民」「反日」とか断ずる人か、政府になんらかの鼻薬を嗅がされている人たち、でない限り、おかしいことはわかるはず。

ツッコミどころは二点ある。

その一:「科学的根拠」だったり「科学者の証言」「科学的実証」がいかに信用できないかについては、水俣とか原発とかコロナとかで既に明らかであるはず。(コロナについてはまだまだだけどこれが国際的な訴訟沙汰になってないこと自体おかしすぎるよね)。今回の汚染水についてもトリチウム以外にも危険な放射性物質あるのを捨象してるとかいろいろ説ありそれはきっとその通りであろうと納得する以前に、そもそも「科学的」という言説がね、というのがある。はじまりからして「海洋投棄しないと汚染水がどんどん溜まっていっちゃって廃炉が先に進まないんです。お願いだから投棄させてね」という日本のもうどうしよもない自己中な動機が先にあって「海洋放出」という結論ありきで進められた話であり、科学的根拠云々は後付け理由であることは明らかであるし。(で、なおかつ悪いことには海洋放出30年やったところでほんまに廃炉がちゃんとできるかどうかについては不透明、どころかほんまはできないんじゃないの?の見通しもあることだし)

その二:科学的根拠だの何だの一切わからなくても、歴史的な大事故を起こしメルトダウンしてまだ廃炉できてない原発の訳のわからない途方もない放射性物質に触れた水を「放射能汚染水」と呼ぶのは普通の感覚であり、それを日本政府がいかに「安全に処理しました」と口酸っぱく言い続けたところで「やっぱり気色悪い」「そんなの世界の海に放流しないでほしい」「そんな海で育った魚介類食いたくない」が普通の感情であろうと思う。ましてやそれを30年放出し続けるていうんやで。そんなんありえへんというのが普通の感覚であろうと思う。日本人外国人問わず。

んなこと、少し国際ニュースとか見て世界の(特にアジアやオセアニアの)ニュースの論調見てたらわかるはず。日本語しかわからない国民が国内ニュースの国内向けメッセージだけ見て「日本は正しい」とか思い込んでる図式は途方もなく危険や。

それこそ前の戦争直前の空気を彷彿とさせる。

日本は世界の孤児であるのに「日本は絶対的に正しい」と思い込む。

...ほんとは映画話書こうかと思てたけど今日はここまでにしときます。

今日は関東大震災100年の防災記念日であったけど、関東大震災朝鮮人虐殺を「なかったことにしとこう」言説にせよ、ちょっともうこのところの日本の言説状況どんどん危険な方向に傾く一方で、お尻がひやひやする。わたしはこの先徴兵されることはないやろけど、どんどん貧困化させられてるし働けなくなったらたちまち見捨てられて早死にするかもしれない。まーわたし一匹くらい早死にしたところで別にいいっちゃいいけど(いやしぶとく長生きしたいけど)それより何よりいまの若い人たちその次の世代の人たちの行く末が気がかりです。

感情景・・パフォーマンスの集い

曇り空のもと夕暮れの扇町公園に怪しき人々のかげが・・「感情景」なるパフォーマンスの集いがありました。もう8回めになるんだそうですがコロナ禍で3年半ぶりの開催とのこと。わたしは見学のみで初めての参加でした。

公園のそちこちをうまく使ってパフォーマーのみなさんそれぞれユニークなパフォーマンスを繰り広げ、素晴らしかったです。まったく知らない人が見ればわけのわからないことをやってるみたいでも、足を止めてしばらく見ていく人、少し離れたところからじっと見てる人たちもいましたよ。

なにやら厳粛な儀式のようなパフォーマンスをされた方々は、それを全うすることでなにかを「丁寧に」「おこなう」ということだったのかなと思います。松田博幸さんは食べること、野中ひとみさんは愛おしむこと、近藤さんは宇宙にいること、金昇志さんは祈ること(あるいは死者と語らうこと?)、平山剛志さんは自分であること、だったかもしれません。それが大真面目であり段取りなどしっかり構成されていて、しかし傍目から見ると不思議であればあるほど少しく滑稽味を帯びたりして、興味深く美しかったです。平山さんも近藤さんも松田さんも夜の暗がりのなかで光の球をうまく扱って、それがまた魂の粒々のようにもみえましたが、上手に影をつかったのがチカモトさんでした。地面や壁に映る影と戯れる動きが躍動感あって素敵でした。参加者みんなも影に参加したりしてね。広場の明るいところで参加者らを巻き込んでコールを指南した樽見萌香さんのパフォーマンスも楽しく参加しました。チカモトさんはあらかじめロケハンしてぴったりの壁面を見つけていらしたそうですが、当日ロケハンで潜水艦の伝声管を模したオブジェ(現代アートの立体作品)を見つけ、それを使って時空を超えたコミュニケーション/ディスコミュニケーションを即興の物語で演じてみせた三刀月ユキさん。公園の闇に溶けこんで次々に木々と語らいながら、それぞれの樹と一体化するように踊った犬飼美也妃さん。暗さも手伝ってホントに木の精霊のように見えましたよ。高代あささんは得意のアートジャグリングの技をフルヴァージョンで披露してくださいましたが、影が美しく落ちて一緒になって踊っているようでした。

でもそんなこんなと言葉で意味付けしなくても、何よりも「おこなう」ことそのものが大切で大事なことだったのかもしれません。松田さんがふとおっしゃっていたように。

途中ぱらぱらと雨粒が落ちてきた時間帯もありましたが雲は次第に切れて美しい上弦の月が顔を出し、わたしたち変な人たちを祝福してくれているようでもありました。昇志さんの着ていたTシャツに書かれた言葉が 'Da vicino nessuno è normale.' =近くから見れば誰も普通じゃない。「みんな変人」と訳してもいいような気がします。

犬飼さんは、樹に寄り添うパフォーマンスを、散歩した時に出会う木々がダンス譜のように見えたことから着想したとおっしゃっていました。わたしもコロナ禍で閉じこもっていた日々、少しでも体を動かさねばと思って早朝または夕方に長い散歩をするのが新しい習慣になりました。散歩から気づくこと、回り道から気づくこと、いろいろあったかなぁ・・と想い起こしておりました。


























 

獨立時代 または A Confucian Confusion

今日もうまく夕立を避けることができた。

仕事を終えて映画館に向かう道道は暗い灰色の雲が垂れこめて今にも泣き出しそうな天気。涙がひと粒ふた粒落ちてくるて感じの剣呑な空だったがなんとか映画館までもち、映画見終えて出てくると雨降りあとと思しく地面がかなり濡れていて歩くと水が跳ねるぐらいだった。空気は残念ながらからっとした感じではなく空も雲が多かったけど半月少し過ぎたぐらいのお月さんが綺麗に見えましたね。

half moon

映画は『エドワード・ヤンの恋愛時代』。中国語題の『獨立時代』英語題の”A Confucian Confusion”のほうが好き。わたしが楊德昌Edward Yangを初めて知った作品でもありました。

1994年の作品とある。その年だったか翌年だったか東京国際映画祭を京都でやった年があって、わたしはめずらしく監督の舞台挨拶に駆けつけ一目惚れしてしまったのでした。その年はアキ・カウリスマキも来ていて北欧人らしい大男の彼の横で北欧人らしからぬ普通の身長のマッティ・ペロンパーが恥ずかしそうにしてたのも印象深い。

その後長らく「生まれ変わったらエドワード・ヤンの足元にうるさくまとわりつく仔犬になるか、ジャン=リュック・ゴダールの鼻先を五月蠅く(うるさく)飛び回る蠅になりたい」というのがわたしのせつなる願いだったのですが・・二人とも鬼籍に入られてしまって(マッティも早々に)。でも転生の法則はきっと一直線に進む時間の軌跡上にはなくどこかでゴダールにも楊德昌にも出逢ってないかと祈っているのですがね。
それはともかく

もう30年ぶりになるのか再見した『獨立時代』、覚えてたシーン(特に夜のシーンとか夜明けのシーンとかエレベーターとか)の美しさにあらためて目を瞠りましたが、ここでこの人物がこう入ってきてこう動きこう交錯してこうぶつかって…という演出がいちいち巧みで、すごいと思わされました。名シーンいろいろ。それにしてもここまで登場人物みんながみんな人格として破綻している(笑)とは記憶してなかった。ひどいもんやもんな。みんなクズ人間またはダメ人間ばっかりです(笑) 。唯一みんなから愛されてる(いい子やと思われてる)琪琪(チチ)も含めてね。そこがまたもういちいちグッとくるんですが・・。

デルフィーヌ・セイリグ Sois belle et tais-toi!

前回の記事で書いた"Jeanne Dielman, 23, quai du commerce, 1080 Bruxelles"でタイトルロールを演じたDelphine Seyrig デルフィーヌ・セイリグ。その映画のなかでは家事をおこなうその手つき、手さばき、仕草、いちいち本当に美しくて見惚れるほどだったんですが、実は大好きな女優さんです。イメージとしては主婦なんか(なんかというと失礼ですが)より『インディア・ソング』"India Song" Marguerite Duras マルグリット・デュラス(1975) の役のような、貴婦人の方が似合っているというか、でも普通の女性を演じていても、粋でかっこよくてクールなエロチシズムを漂わせ、ぜったいお馬鹿ではない筋の通った感じがいいですよね。年取ってからも皺の一本一本に至るまでずっとかっこよかった。

そのデルフィーヌが監督しているドキュメンタリー映画をMUBIの配信で見つけ、そのあっぱれな出来にまた感心してしまった。日本で上映されたことがあるのかな?日本語タイトルが見当たらないのだけど "Sois belle et tais-toi!" 英語タイトルがまんまなんで載せとくと"Be Pretty and Shut Up!"。実はまったく同じタイトルのフランス映画があってその邦題は『黙って抱いて』"Sois belle et tais-toi!" Marc Allégret (1958)  マルク・アレグレ監督でMylène Demongeot ミレーヌ・ドモンジョというコケティッシュな魅力の(日本でも大人気だった)女優さん主演のお色気犯罪コメディです。そのタイトルの批判的パクりね。

デルフィーヌ・セイリグが1975年にフランスとアメリカで24人の女優に行ったインタビューを編集したもの。米国側はJill Clayburgh, Jane Fonda, Viva, Millie Perkins, Ellen Burstyn, Shirley MacLaineら、フランス陣はAnne Wiazemsky, Marie Dubois, Juliet Berto, Maria Schneider(ベルトリッチの『ラストタンゴ・イン・パリ』に出たばかりの)などという豪華さ。'75年という年が微妙で、もちろんアメリカでは女性解放運動が行き渡った頃、フランスでは少し遅れてしかし確実に動きがあった頃。監督の聞き出し方も上手いんだろうけど、女優たちの口々に語る本音が胸のすく爽快さ! 男性(監督・観客)視線の女性像・女優像をかる〜く粉砕してくれちゃってます。加えて女優というお仕事のむずかしさ(あるいは面白さ)、女優として映画業界のなかで生き延びていくこと・・などなど。わたしも映画見るときに、特に映画の中の女優(あるいは女性の登場人物)を見るときに男性目線になってしまったりするのですが、あらゆる傑作に登場する素晴らしい女性像すべて含めて、やっぱり偏ってるよなぁ・・(演じる女性にとっては馬鹿げていたり非現実的だったり演じにくかったり阿呆らしかったりするよなぁ)と思います。溝口健二の映画で素晴らしい女性を演じ続けた田中絹代が、やっぱり自分で撮りたかったのもそれかな。女性監督がどんどん出てくるようになって状況かなり変わってきたけど、それでも日本の女性監督まだまだ少ないですよね。

インタビュイーのなかで特に印象に残ったのは、すべてフランス語でしゃべりまくるジェーン・フォンダJane Fonda(映画界の寵児であり被害者でありその後の活動含めてあらゆる意味で象徴的存在ですよね)、そしてわたしがお気に入りの、しかし若くして亡くなってしまったジュリエット・ベルトJuliet Berto(ヌーヴェル・ヴァーグの顔の一人)でした。

 

シャンタル・アケルマンの200分

長雨はあがりましたがこんどは残暑が厳しいですね。秋の日差しは斜めから来るので暑さを余計に感じるような気がします。雲や空はもうすっかり秋の色なのに・・。

そして感染はますます燃え広がり・・そりゃーほっといてもいつかは下火になってくるだろうけど、ここまで何にもせずに放置どころか、感染拡大を引き起こすことばっかりやってる政府って・・。自宅療養という名のもとに放置されてる患者の方々、そのご家族、そして医療崩壊のただなかでやれることやるしかない医療関係者の方々、本当に大変だと思います。そして(わたし自身も含め)だらだら続くだけの「緊急事態」のなかで経済的にも仕事の上でもダメージ受けて大変な人たち・・。なんとかみんな生き延びましょう。

昨日京都の出町座まで出向いて観てきた『ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23 番地 、ジャンヌ・ディエルマン』"Jeanne Dielman, 23, quai du Commerce, 1080 Bruxelles" Chantal Akerman(1975) がすごかったです。シャンタル・アケルマンのものすごさを見せつけられましたね! たまたま会った映画友達と上映前に『ドライブ・マイ・カー』濱口竜介 の話をしていて、あれも3時間すっごい稠密な映画時間が持続するすごい映画であったけど、シャンタル・アケルマンの200分の稠密ぶりには負けたな。いや、勝ち負けの問題ではないのだけれど・・。

じゃがいもの皮を剥くだけ、のシーンのあの緊迫感。母と息子は無口でほとんど会話を交わさないのだけど、思いがけない(しかし必然的な)ときに口にされる少ない台詞の恐ろしさ。衣類を畳み、布や紙のしわを伸ばすデルフィーヌ・セイリグDelphine Seyrigの手捌きの美しさ。

あの時代のフランス系主婦の丁寧で始末な家事のドキュメンタリーみたいにもなっていて(わたしもささやかながらごく身近に目撃したことあるけど)照明をこまめにつけたり消したりとか、使ったものはすぐしまうとか、ベッドを整えるとか、炊事を効率良く済ませていくとか・・・じゃがいもが煮える間の「お仕事」。そして日の短いベルギーの朝まだ暗いうちから少しずつ明るくなり、昼間明るかった廊下が夕方暗くなり、その時間の流れ・・。完璧に家事をこなしあまりおしゃべりもしない大袈裟な感情表現することもない、この主婦が、淡々とした日常の時間の動作や仕草やちょっとした表情の中に見せる感情の揺れの豊かさが、ほとんど形式美とすらいえるシャンタル・アケルマン独自のみごとな画面構成のなかに、このうえなく繊細に繊細にしかも誰の目にもあきらかに見えてくるという・・。

じゃがいもを失敗する、抱き上げると泣く(つまり自分に懐いてない)乳児を執拗にあやす、ものを取り落とす、好きなコーヒーがなかなか飲めない、ただぼーっと座っている・・そんなことのなかに、クライマックスに至るヒロインの感情が積み重なり、誰の目にも気になる具体的な伏線もあり・・とほんとうにみごとなドラマトゥルギーです。映画という表現形式の一つの頂点、映画にはこんなことができるのか!を思い知らせる一作だと思う。「映画」というものを知りたい人は、全員見るべきだと思う。

・・って昨日の今日で興奮してます。

シャンタル・アケルマン、海外では(特に映画関係者には)ものすごくリスペクトされている監督なのに、日本では全然公開されていないし、本格的に紹介されてもいないのではないか? 商業映画も撮ってるんで少なくとも公開されたものは見たし、実験的な作品も輸入ビデオなどのかたちでいくつか見たけど、本格的な回顧上映ぜひともやってほしいです。

陰鬱な雨は続く・・

なんて陰鬱な夏の終わり・・。降り続く大雨に広がり続けるコロナ禍に。水害や土砂災害に遭った方々、COVID-19に感染した方々、本当にお気の毒です。なんとか生き延びてくださいと言うしかない。

世界を見渡しても香港、ミャンマーベラルーシ・・などに続いてアフガニスタン。こんなに早くタリバンが制圧してしまうなんて。(予想されていたのか)。心を痛めるニュースの数々・・これもなんとか生き延びてくださいと言うしかない。

世界の心ある国々は難民受け入れとかいち早く動いているのにね。日本はといえば悪名高き入管施設で文字通り「殺人」が行われている事実が明らかになりつつある。

世界の隣人に対して冷酷な国、日本国内でも隣人に対して冷たい国、利権のあるところにだけ目が向いている、この危機に国民を救うことを何一つせず、むしろ悪い方、悪い方ばかりに舵を切ろうとする暗愚このうえない政府・・。

日本の感染状況、数字だけ見ても世界8位とかって言ってたか? 検査数抑えに抑え、入院もさせず、隠れた感染者、隠れた重症患者、そして死者もあって、数字は低めに低めに出されているに違いないので、実は世界一ひどい感染状況にあるという人もいる。

いち早くワクチン接種を進めた欧米でもまた感染が拡大しつつある。もう次のステージを意識した対策をしないといけないときに、日本はまだワクチン接種進まないなかで、オリンピックという悪手中の悪手をやってしまい、まだパラリンピックだとか言うてる。ほんまになんとかしないとこのままではますます状況が悪くなるばっかりやで。

世界にはうまく感染を抑えこめている国、なんとか医療崩壊を起こさずにきている国や地域もあるのに、それを見習えばいいのに。なんでやらないのか? 民を見殺しにする方向へ方向へと進んでいる怖ろしさ・・。

といいつつ、やっぱり映画は見たい、ライブも聴きたい、お買い物もしたい、友達にも会いたい、会って酒飲みたい、わたしですけどね。ただ、朝晩満員電車の通勤が続いてるのは、これは止められるんちゃん。国民一律30万円ぐらいパッと素早く給付して、短期決戦で思い切ったロックダウンをする。検査を拡大し、隔離施設、医療施設(野戦病院方式の)をつくって、封じ込めを徹底する。もう頭も回らなくなって言い間違いを連発している老人に任せておいては何ごともできんぜ。