稍ゝおも

ややおもしろく、ややおもたく、jajaのJa,Ja,おもうこと

シャンタル・アケルマンの200分

長雨はあがりましたがこんどは残暑が厳しいですね。秋の日差しは斜めから来るので暑さを余計に感じるような気がします。雲や空はもうすっかり秋の色なのに・・。

そして感染はますます燃え広がり・・そりゃーほっといてもいつかは下火になってくるだろうけど、ここまで何にもせずに放置どころか、感染拡大を引き起こすことばっかりやってる政府って・・。自宅療養という名のもとに放置されてる患者の方々、そのご家族、そして医療崩壊のただなかでやれることやるしかない医療関係者の方々、本当に大変だと思います。そして(わたし自身も含め)だらだら続くだけの「緊急事態」のなかで経済的にも仕事の上でもダメージ受けて大変な人たち・・。なんとかみんな生き延びましょう。

昨日京都の出町座まで出向いて観てきた『ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23 番地 、ジャンヌ・ディエルマン』"Jeanne Dielman, 23, quai du Commerce, 1080 Bruxelles" Chantal Akerman(1975) がすごかったです。シャンタル・アケルマンのものすごさを見せつけられましたね! たまたま会った映画友達と上映前に『ドライブ・マイ・カー』濱口竜介 の話をしていて、あれも3時間すっごい稠密な映画時間が持続するすごい映画であったけど、シャンタル・アケルマンの200分の稠密ぶりには負けたな。いや、勝ち負けの問題ではないのだけれど・・。

じゃがいもの皮を剥くだけ、のシーンのあの緊迫感。母と息子は無口でほとんど会話を交わさないのだけど、思いがけない(しかし必然的な)ときに口にされる少ない台詞の恐ろしさ。衣類を畳み、布や紙のしわを伸ばすデルフィーヌ・セイリグDelphine Seyrigの手捌きの美しさ。

あの時代のフランス系主婦の丁寧で始末な家事のドキュメンタリーみたいにもなっていて(わたしもささやかながらごく身近に目撃したことあるけど)照明をこまめにつけたり消したりとか、使ったものはすぐしまうとか、ベッドを整えるとか、炊事を効率良く済ませていくとか・・・じゃがいもが煮える間の「お仕事」。そして日の短いベルギーの朝まだ暗いうちから少しずつ明るくなり、昼間明るかった廊下が夕方暗くなり、その時間の流れ・・。完璧に家事をこなしあまりおしゃべりもしない大袈裟な感情表現することもない、この主婦が、淡々とした日常の時間の動作や仕草やちょっとした表情の中に見せる感情の揺れの豊かさが、ほとんど形式美とすらいえるシャンタル・アケルマン独自のみごとな画面構成のなかに、このうえなく繊細に繊細にしかも誰の目にもあきらかに見えてくるという・・。

じゃがいもを失敗する、抱き上げると泣く(つまり自分に懐いてない)乳児を執拗にあやす、ものを取り落とす、好きなコーヒーがなかなか飲めない、ただぼーっと座っている・・そんなことのなかに、クライマックスに至るヒロインの感情が積み重なり、誰の目にも気になる具体的な伏線もあり・・とほんとうにみごとなドラマトゥルギーです。映画という表現形式の一つの頂点、映画にはこんなことができるのか!を思い知らせる一作だと思う。「映画」というものを知りたい人は、全員見るべきだと思う。

・・って昨日の今日で興奮してます。

シャンタル・アケルマン、海外では(特に映画関係者には)ものすごくリスペクトされている監督なのに、日本では全然公開されていないし、本格的に紹介されてもいないのではないか? 商業映画も撮ってるんで少なくとも公開されたものは見たし、実験的な作品も輸入ビデオなどのかたちでいくつか見たけど、本格的な回顧上映ぜひともやってほしいです。