稍ゝおも

ややおもしろく、ややおもたく、jajaのJa,Ja,おもうこと

タイの香り米の匂い

タイへの弾丸旅行から帰国してその日の夜行った京都エクスペリメントの作品が偶然タイの作家の作品。開場待ちの列に並びながら、なんだかタイの香り米の匂いがする気がするなぁ・・タイから帰ってきたとこで幻臭かしらんと思ってるとどうやらそうではなく、パフォーマンスのなかでホントにご飯を炊いてた。それを日本人もするように小さな器にこんもりまるく盛り付けて父の遺影に飾るというのが印象的でした。
(それにしても・・と思うのは、昔々タイ米って「臭い」とか言って馬鹿にしてませんでした?うちの親たちの世代はそう。いま「ジャスミン米」のあの芳香を「臭い」って嫌う人どれくらいいるのかしらん?もちろん好みもあるやろけど昔々「臭い」と言うてたんは差別と偏見、そして異質なものへの嫌悪もあったんやろうなと・・。そういうわたしもトムヤンクン系のtoo spicyなタイ料理苦手やしキムチ(系の韓国料理)はどうしても好きになれんのやけどこれは好みの問題ね。実際にタイ行ってみるとわたしの口に合うタイ料理いっぱいあったわぁ・・)
と、話が逸れましたが・・

ウィチャヤ・アータマート / For What Theatre
ジャグル&ハイド(演出家を探すなんだかわからない7つのモノたち)

Wichaya Artamat / For What Theatre
Juggle & Hide (Seven Whatchamacallits in Search of a Director)

チェンマイで泊まったブティックホテルは家族経営のすごく親切な宿で建物もインテリアも可愛くてカフェも兼ねてて料理も飲み物も美味しいという最高の宿だったんだけど、到着した日はそこで晩ごはんを作ってもらって宿のお母さん(よく喋る)とお父さんとおしゃべりしていたのだが、そのなかでお母さんが「いまのアメリカは安心して暮らせない。中国もダメ。タイだと平和に暮らしていける」みたいなことを言うてた。これ、以前もベトナム旅行中にタイ留学中でベトナムは休暇で来たという若いアメリカ人に聞いたことがあった。そのときちょうど軍部のクーデターか何かで政情不安があったはずが、そのアメリカ人に言わせると「平穏そのものやで」と。(「やで」はわたしの解釈)。今だってタイの政情そんなに安定してるわけやないやん?それでもそのお母さんに言わせると「平穏」。街の雰囲気もほんまに平穏。これはいったい何なんだろう?一介の旅行者には見えてないだけか?

それはともかくこの作品。タイの現代史を辿ると結構大変なことがいっぱい起こってるのだがその現代史をいろんなモノたち・・印刷物やおもちゃや映像やをコラージュして(それを作り上げる過程を見せながら)辿りながら、その演出家にいろいろ異議申し立てを行うモノたちの声を聞かせ、作り上げた舞台?(作品?)を最後は破壊していく・・という作品。タイトルはピランデッロのもじりだけど、その登場人物らよりはよっぽど可愛いいろんな表情のいろんな動きをするモノたちが最後は破壊に精を出すのがおもしろかったです。

タイはチェンマイにて中秋月

ばたばたと海外弾丸旅行して帰ってきたらすぐ京都エクスペリメント三昧でなかなか落ち着いてブログ書いてる暇がなかった。こういうので間が空いてしまうのだな・・。

旅行の方をとりあえず報告しておこう。コロナ禍の前年にイタリア行って以来の海外でした。関空チェンマイのお得な直行便を利用して初のタイ。更新したてのパスポートの初渡航地でした。

タイは雨季の最後らへんで残念ながら雨の天気だったけどちょうど中秋の名月にあたる晩は曇り空のなかお月さんが頑張って光ってくれました。

チェンマイはお寺の街。散歩すればお寺に遭遇し残らず仁義切ってきた(わたしなりの作法でお参りしてきた)。日本のお寺と共通する部分も多いのだがタイならではの世界観に圧倒されっぱなしでした。なんせ金ピカピカで色鮮やか。銀ピカのお寺もあったな。いろんな仏さん神さんがいた。人々も優しかった。ごはんも美味しかった、

 

女の「からだ映画」もいっちょ・と・詩と映画の生まれる瞬間

『バーナデット ママは行方不明』Where'd You Go, Bernadette (2019) Dir : Richard Linklater  Star : Cate Blanchett

リンクレーターじゃなきゃ見に行ってなかったと思うけどそれにしてもケイトはうまい!『TAR ター』もものすごかったけど、こういう(予告篇見た限りでは普通の主婦のお悩み映画かな?と思いきや)作品にも狂気あふれるものすごさを醸し出すわね・・。これまた「からだ映画」の系譜というべきか、ヒロインの作る家、住む家があからさまに彼女の心身を表象していますね。楽しく見ました。

あ、それと。映画内で使われる「ぞうさん」の曲は日本のtraditional ではなく作詞:まどみちお 作曲:團 伊玖磨とクレジットが必要じゃないの? 誰か指摘しておいて。

と、これだけじゃなんなんで・・

『TAR ター』Dir : Todd Field Star : Cate Blanchett

についても書こうかと思ったけど見たとき感じた「ものすごい」という感覚がもう忘れられててどうも書く気しない。感興のあったときに書き留めとかんといかんな・・。

というわけでこれはまだまだ感興の残っている・・

『眩暈 VERTIGO』監督: 井上春生 出演: 吉増剛造

ジョナス・メカスの作品は大好きでわりと見てきているし(全部は無理)したがって幼い頃のセバスチャンの姿も覚えている(大きくなって禿頭になっても面差しは変わらない)。その中に登場する若き吉増の姿ももちろん覚えているし・・メカス自身詩人だしね。散文もいいし・・。

一方で『背 吉増剛造×空間現代』監督: 七里圭  などに記録された最近の吉増の活躍ぶりにも目が離せないでいる。その七里圭がプロデュースし京都の春秋座でやった映像と音楽と詩のイベントに登場した吉増の姿もまのあたりにして圧倒されたし・・。

そういう貴重な奇跡の邂逅、わたしのなかでも奇跡の邂逅が、まさに映画のなかに記されているのがこの『眩暈 VERTIGO』だったと思います。「めまい」と読まずに「げんうん」と読みたい。ここには映画の生まれる瞬間が確かに記録されているし、詩の生まれる(降りてくる)瞬間がたしかに刻まれている。

これは映画を作る人(見る人も)全員が見るべきだし、詩を書く人(読む人も)全員見るべき映画ではないか・・。

もっともこの吉増剛造の姿を見てると、わたしのやってることなんてホントにささやかでダメダメだめだめで・・とか思っちゃうと、詩(と自称するもの)なんて書けなくなっちゃうなぁ・・とかも思ったりして。いや、それは、また、べつのことかな。

ジョナス・メカスに励まされてどんなささやかな日常でもそのなかに見える/聴こえる繊細な詩のひびきに耳を傾けささやかに表現していきたいとも思うし・・。

 

クラピッシュの解?と思いきや・・

『ダンサー イン Paris』En corps (2022) Dir : Cédric Klapisch Stars : Marion Barbeau, Hofesh Shechter, Denis Podalydès

原題が出たときにおお!これはクラピッシュ流の「からだ映画」かと思いきや、こちらのcorpsはむしろコール・ド・バレ(群舞)というときのcorps。"en corps"で辞書に載ってて「みんな一緒に」とか「団体のなかで」という意味ですね。日本語でも「一体となって」とか「体」の字を使うけど、ちょとニュアンスが違うか・・。

クラピッシュ節炸裂の大いに笑ってホロリと泣けるフランス人情喜劇でした。もちろん恋愛要素は欠かせず恋する男女が全力疾走するシーンなど(あらゆる映画のお約束とはいえ)やっぱりええもんです。こないだ見たばかりの『いつわり』ではあんなにエロかったDenis Podalydèsがこちらの映画ではものわかりがよくなくて娘らからは愛されつつ疎まれてるお父さんを巧みに演じてましたね。

もちろんダンスする身体もしっかり見ることができました。クラシックバレエコンテンポラリーダンスも見応えあった〜!

邦題なぜかParisになってるけど、ヒロインが(そして演じた俳優も)パリ・オペラ座バレエ学校出てオペラ座で踊ってたので日本人向きにアピールするんやろけどむしろパリを離れてブルターニュだの田舎のシーンがよかったですね。

クローネンバーグの解

夢話多くてすまん。(て、誰に謝ってるねん?)
ずっと前に見た重要な夢のなかで「私の夫」として出てきた人物が(ちなみにわたしは結婚したことないので現実の「私の夫」は過去にも現在にもいません。未来は知らんけど?)骸骨みたいな顔したコーカサス系の西洋人で、えーと誰だったかなぁ・・クローネンバーグが使ってる俳優さんだった。と名前を思い出せず『裸のランチ』を検索して、そうそうピーター・ウェラーだったと思い出す。それもあって今回のリバイバル上映も観に行ったのだがその前に見た(これは家でビデオ視聴したので劇場で観るのは初めてだったかも)『ビデオドローム』でジェームズ・ウッズの顔を見てなんのこたないこっちの顔も入ってるやん・・と思い当たった。というかクローネンバーグが似たよなタイプの男優(女優も)を使いたがっててそのときのわたしの夢も「夫」の表象として「クローネンバーグの俳優」のイメージが出てきたというほうが正しかったのかも。
もひとつ。『ビデオドローム』にデボラ・ハリーが出てたことをすっかり忘れてて、しかもブロンドでなくブルネットで出てきてるもんで「えーとこの女優さん絶対知ってるんやけど誰やっけ?」(まぁ映画見ててよくあることですが・・今回は「女優さん」と決めつけてたことも出てこない一因やった)とモヤモヤし続けクレジットでようやく「デボラ・ハリー?誰やっけ?え、嘘、歌手の?そうや!デボラ・ハリーやん!」と確かめられ・・いや実はこちらのほうもけっこうわたしの夢的に意味があったのでした。(ブロンディけっこう好きなんです。)
裸のランチ』 Naked Lunch(1991) Dir : David Cronenberg Stars : Peter Weller, Judy Davis
ビデオドローム』Videodrome(1983) Dir : David Cronenberg Stars
: James Woods, Debbie Harry

ってまたどうでもええ話を長々と書いてまんなぁ・・
ほんとはこっちのことを書きたかったんです。
『クライムズ・オブ・ザ・フューチャー』Crimes of the Future(2022) Dir : David Cronenberg Stars : Viggo Mortensen, Léa Seydoux, Kristen Stewart
先日『エリザベート 1878』のことを「からだ映画」とか書いてて、実はそれ以外のことでも(主に詩作のモチーフで)「からだはからだ」(体は空だ)に取り憑かれていたわたしだけど、なんとそれに対しての最高にエレガントで最高にキッチュな解をほかでもないクローネンバーグが与えてくれてるやん!って見ながら(画面の展開をわくわくしながら追いながら美しいショットにいちいち見惚れながら)興奮していたのでありました。
体内にできる腫瘍=新臓器、皮膚を切り裂く快感、新しいsexとしての外科手術・解剖、そして身体改造・進化をめぐる陰謀・・こんなパフォーマンスアートがあれば見てみたい!(マリナ・アブラモヴィッチとか先駆的な例はある)。ヴィゴ・モーテンセンのクローネンバーグ俳優らしさ何よりも美しさは年取ってますます磨きかかってたしレア・セドゥもクリステン・スチュアートもみごとにクローネンバーグ化していて怪しいエロさエキセントリックさ満載(わたしは『裸のランチ』のときのジュディ・デイヴィスが一番お気に入りだけど)ほかの俳優さんたち(特に女優さんたち)も良かったなぁ・・わざわざギリシャアテネで撮った甲斐があったぐらいに神話的・哲学的・審美的でもあるし。これみて改めて『クラッシュ』も見たくなった。今回の特集では見送ったのだった。惜しかったな・・。
『クラッシュ』Crash(1996) Dir : David Cronenberg Stars : James Spader, Deborah Kara Unger

家という表象(2/2)・・エリザベートの胴

先の『オオカミの家』にまつわる記事のなかで「家」とはマリアの「からだ」そのものでもあり・・とか書いたのだけど、その感覚わかってもらえます?

夢のなかに家や建物が出てくることは普通にあるかな。わたしの場合「わたし」そのものが「家」であるという夢もよく見ます。夢の中のその家の状態でわたしの状態がわかるし、そこに招き入れる人たち、訪れてくる人たち、そのとき何をやってるか、その雰囲気やみんなの気分やわたしの気分、何が行われていてどういう言葉が交わされているか・・などなどを見て、自分の欲望(または恐れ)のありかもわかる。

そういえば(まだ本題に入らない)わりと最近見た昔のNHK特集でアルハンブラ宮殿と女王イサベラの話をやってて、そのなかでアルハンブラ宮殿の一部に「自分」(=宮殿の建物)を女性として一人称で語っている文章が(もちろんアラビア文字で)書かれているみたいなことを紹介していた。イサベラ女王もまた自身のイメージを宮殿に投影していたところがあったのかもしれない・・。

で、ようやく本題に入りますが、

エリザベート 1878』Corsage(2023)  Dir : Marie Kreutzer Star : Vicky Krieps

ヴィスコンティの『ルードヴィヒ』Ludwig(1973) Dir : Luchino Visconti Stars : Helmut Berger, Romy Schneiderを偏愛している向きには、または(見たことないけど)宝塚歌劇の『エリザベート』を愛していらっしゃる向きには、ロミー・シュナイダーの溌剌として美しいイメージとは全く異なるヴィッキー・クリープスの中指立てる(この仕草もそうだけど劇中ときどきその時代にはあり得なかったでしょの言葉や表現が出てきて面白い)エリザベートに戸惑うかもだけど・・「もう若くない」40歳を迎えたエリザベートの1年を描いた作品なので、ヴィッキーの生意気なくせに繊細で傷つきやすいその顔つき存在感がぴったりなんです。本当なのかどうか?エリザベートは美しい肖像画をたくさん残しているけれど、40歳以降は自らの若く美しい評判を保つために肖像画を描かせなかったという。

そのかわりここで描かれるすさまじい拒食症と細い胴回りへの執着。食や食卓を拒否し性に向かうその(むしろ死に向かう)反発力そのものが彼女の生(/死)に必須な栄養素となる。そのビリビリくるようなあやうさ痛快さ。

・・ところで原題のcorsageですが「コルセットで締め付けること」ぐらいの意味なのかなとぼんやり思ってたところ、辞書引いてみると「(長袖の)ブラウス、(ドレスの)胴回り・身ごろ」の意味しかないのね。つまりは女性の「胴を覆うもの」ぐらいの認識でいいのかしらん? と思うと、公式サイトでは「コルセット」の意味だと書いてある???

とにかく「胴を覆うもの」だとすると、これは『オオカミの家』のオオカミにあたるのか?彼女の胴のまわりを徘徊し彼女を監視し呼びかけるねめつける締めつける・・。

侍女たちもまた彼女の胴体corpsに巻きこまれひとつの軍団corpsとなって強くしなやかで細い胴を維持し、男たちや周辺社会と対峙する。(身代わりになったり人生を捧げたり階級的には皇女に属して大変な思いをしてるんだけどそれぞれの女性もまた魅力的だ)。むしろ幼い娘が保守的で窮屈な価値観を振りかざして主人公を脅かしたりする。

ふだん喋っているオーストリアのドイツ語(これにもいろいろ方言とかあるのかもしれないが残念ながらわからず)、そちらの方がお気に入りらしいハンガリー語マジャール語か)、相手によってしゃべり分ける英語、フランス語・・そしてその時代らしからぬ現代の俗語。

彼女が唯一くつろげる従兄弟のルードヴィヒの館(これもヘルムート・バーガーと違いすぎて・・という嘆きはなしにして)、死の魅惑とそこに身をゆだねることの快感をあじわえるような夜の湖、彼女がヨーロッパを転々としその身を(一時的であれ)容れる城や館の建物のありようが、また彼女そのものの「からだ」を体現する。きらびやかに飾り立てられていたり、廃墟のように荒んでいたり、不思議の国のアリスが大きくなった身体を持て余すようにつっかえてしまったり・・。

「からだ」の「から」は「空っぽ」の「空」すなわち中空形態のものを指すみたいな語源論を聞いたことがあるけれど、『オオカミの家』も『エリザベート1878』も、そのからっぽな中空の家に異物が生えてきたり闖入したり内側を塗りかえたり傷んできたり崩れてきたり、また自分自身が異物だったり排除されたり、すぐれて「からだ」映画だったと思います。それもやはり「女のからだ」なのかな?

家という表象(1/2)・・オオカミの家

チリという国は、アメリカのいわゆるジャカルタ・メソッドのせいでホントにひどい目に遭っている。こういう歴史を生き延びてきていると表現者もそりゃあ一筋縄ではいかないよなぁ・・と、幾人かのチリの監督( Patricio Guzmánとか・・)思い出し。

昔むかし

『サンチャゴに雨が降る』Il pleut sur Santiago(1975) Dir : Helvio Soto Stars : John Abbey, Jean-Louis Trintignant, Bibi Andersson

という映画があり、それでチリ情勢知った程度だったけど、その(共産主義アジェンデ政権をクーデターで倒した)軍事独裁ピノチェト政権下で、ナチス残党が作ったという「コロニア・ディグニタ」の存在も

『コロニアの子供たち』Un lugar llamado Dignidad(2021)  Dir : Matías Rojas Valencia

という映画で最近知ったばかり。

そしてこれもまたそのコロニーをモチーフにしているという

『オオカミの家』La Casa Lobo(2018)  Dir : Joaquín Cociña, Cristóbal León

ちょっともう噂に違わぬ凄さでしたわ・・同じ二人の監督による短篇

『骨』Los Huesos(2021) もまた・・。

「オオカミの家」とはコロニーの家そのものでもありコロニーを逃れてきたマリアという主人公のつくる家でもありそのマリア自身のからだでもあり。マリアの独白、その家またはマリアを取り巻き監視し呼びかけるオオカミの言葉・・ときにはスペイン語でときにはドイツ語で語られる・・。

アニメーション表現そのものとしても傑出している。家の壁だったり床だったりに直接描かれた絵の展開(立体的な目眩し)、その空間の中に置かれたほんまに立体の人形だったりオブジェだったりの動きや変化。それが、家そのもの(あるいはマリアの身体そのもの)が生成したり転移したり変化したり崩れ落ちたり焼かれたり、その中に癌のように異物が育っていったり(それは2頭の豚が変化した娘と息子だったりマリアそのものの自己像だったり)これもまた生成したり膨張したり変異したり崩れ落ちたり・・そのいっときも恒常な状態を維持することなく変化し続ける(そしてあたらしい状態を招き寄せる前にかならず崩れ落ちる)、意味を考える余地なく次々と繰り広げられる展開に瞠目する。「家」そのもの「からだ」そのもの、そしてその変転そのものがひとつの終わらない悪夢のように・・。

オオカミがドイツ語で唄うブラームスの「眠りの精」も美しいだけによけい恐ろしい。(『コロニアの子供たち』でもよく知られたドイツ語の讃美歌が歌われるのだけどそれもまた美しいだけに恐ろしい)。ドイツ民話の眠りの精は砂粒を子どもたちの目に撒いて子どもたちの瞼を閉じさせるというのだが、その伝説そのものも、ちょっと最初聞いたときは恐ろしく感じたものです。眠らせようとする暴力的な魔法のなかでの終わらない悪夢・・。

もうひとつ言及したい映画があったのだがそれはひとまずここまでにしとこう。