ドッグマンDOGMAN
it.wikipedia.orgイタリア旅行から帰ってこっちで最初に見たイタリア映画がコレだなんて・・。
しかし『ゴモラ』もそうでしたけど、暴力と依存のネットワークでがんじがらめの恐ろしさを描ききる監督の力量には脱帽しかありません。一人ひとりの人間その人が醜悪だったり卑小だったり悪魔か神のようであったりするわけではなく(いやするんですがそれは単独でそうというわけではなく)、その関係性のしがらみが、もうなんだか悪魔のようで脱け出せなくてどうしようもないのね。
冒頭それを身のたつきとしながら獰猛な大型犬に吠えられ手こずっている主人公の姿。洗い場のガランとした空間。檻の中の犬たち、扉を開けて外に出た店先のようすと、そのならびにある殺伐とした街・・が、もう作品のトーンの全てを決定してしまう。主人公が犬に呼びかける「アモーレ」とは岩合光昭さんが猫に呼びかける「いい子だね」に相当するわけですが、イタリア語だとamoreですものね。なんと身も蓋もない・・。
街のひとびともまたみんなシモーネという禍(わざわい)を除去したいと疎みつつ、街の不条理がそこに収束する虚数の点としての暴力装置シモーネと専らそれを受け止める受容器であるマルチェッロの関係を、手を束ねて横目で見守り、その上をいく暴力装置を誘致するのか、あるいは「誰かが殺すだろう」(「誰」とは口にせずともみな薄々わかっていて自分の手を汚したくないわけね)と嘯いている。
犬たちと登場人物らが隠喩になっているのも巧みなところで、まるで獰猛な大型犬のように理不尽で暴力的だけれど美しく愛らしい(主人公と母親とに愛されている)シモーネ、雑犬とかチワワとかのようにみすぼらしく卑屈で他者に依存して生きる主人公、プードルのように心身ともに可愛らしく健気な主人公の娘。でも犬の方が口きかぬ分、頭を使わぬ分、まだ人間よりマシかもしれない。そんな犬たちと人間たちもまた共依存のしがらみに囚われている。
ずんずん歩くシモーネの姿、力いっぱいに暴力を振るい、母を抱きしめてその動きを封じる姿は、大映の大魔神をも彷彿とさせ、ほとんど神話的ともいえる。こんな酷いことが世の中にあってたまるものか(ことにアモーレいっぱいの国であるはずのイタリアに?)と見る人は思うかもしれないけれども、これは実話を元にしているらしいし、そのことは神話のうちに既に大昔に書かれていることでもあるのでした。(もちろん暴力を肯定する意図でこういうことを書いているわけではありません。)
ロケ地はカステル・ヴォルトゥルノCastel Volturno とある。ネットで見る限り美しい観光リゾート都市だけど、映画に映っていたようなさびれた一角があったのか? 青と茶色をベースにした色調抑えた画面の美しさ、人物同士が関わりあう身体同士の重なり合い、動作同士の重なり合いを描き切るその演出も素晴らしかったです。