稍ゝおも

ややおもしろく、ややおもたく、jajaのJa,Ja,おもうこと

アイネク、とか

満員電車や満員バスが死ぬほど嫌いで、だから勤め人にはなれなかったのに、たまに通勤時間帯に出かけなければならないのはツライ。我慢して周りの人びとに見習う。彼らは、この電車は殺人的混雑だけど次の電車はまだマシだとかよく知ってるし、ターミナル近くに出ても変な動きをする邪魔な人はいなくて、通勤人の流れが整然と早足で一方向を目指すので、その流れに沿っていけばいい。途中、大きな流れと流れが交差したり横切ったりするところもあるのだが、ものの見事に別方向の人々と早足のまま擦れ違うことのできるのには我ながら(というか皆に)驚嘆する。
なんでそんな思いをせんといかんかといえば、映画館が有為な日本の作家の作品に朝一番の一回上映とか不利な待遇しか押しつけてなかったりするからです。朝一番だけとか昼の時間帯だけとかレイトショーだけとか、ある作品の上映をある時間帯だけに固定されてしまうと、ものすごく見にくくなる。結果、うまく時間帯のはまった映画を見て、ホントはもっと見たかった作品を見逃してしまう羽目になる。今朝なんとか見たのはこれ。
アイネクライネナハトムジーク

gaga.ne.jpところで『蜜蜂〜』のなかで松岡茉優ちゃんが「アイネク」とか略していたこの曲名ってドイツ語だからええようなもんで、英語にしちゃうとA Little Night Music (ホントにその訳が使われてるようだ)。なんかまったく情緒がないな・・。
映画です。ああマッチョで小市民的な価値観がたまらなく嫌だわ・・と思っちゃうと(女性が見ると怒るよなぁ・・)今泉力哉の極上の細部を見逃すことになる。我慢して見ましょう。このぶきっちょでセコくて愛すべき(欠陥かかえた)人びとの、それぞれの距離を隔てて散らばった、10年という架空の時を隔てた(子どもが高校生になっても、それが均質の時間空間を隔てた同じ場であることを示すのに、こだまたいちが全く同じ恰好で同じところで同じ唄を唄い続けているのが可笑しいが)、映画内空間で繰り返されるセリフや細部・・。
それにしても・・『真実』La vérité(2019)であっても、あのフランスの大女優たちを使ってさえ、映画内の空間が(というか人物と人物の距離感が?)是枝裕和のそれになっているというのにびっくりする。映画監督ってのはそれぞれそんなふうに独自の(映画内)空間感覚を持っている人なんだな、と。
これも書きそびれていたけれど『毒戦』。ずっと以前に見た杜琪峯ジョニー・トゥの香港本家本元版『ドラッグ・ウォー 毒戦』毒戰(2012)と、今回見た韓国版『毒戦 BELIEVER』독전(2018)で、やっぱり異なるのがそれぞれの人物像というよりは、人物と人物のあいだの距離感であったり、それを含めた空間の距離感であったりするわけだ。香港版の俳優たちも、韓国版の俳優たちも大好きだけど。もちろんこの非情で不条理でエキセントリックでトリッキーな作品世界(というかノワール独特の作品内倫理?)も大好きだけれど。

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