稍ゝおも

ややおもしろく、ややおもたく、jajaのJa,Ja,おもうこと

光と空気と風と光景

昨夜(日付は一昨夜)は十五夜(もち)、今宵(日付は昨夜)は十六夜(いざよい)。

昨夜は雲が厚かったけど時折顔を見せる望月が美しかった。今夜も雲がちだけど秋らしい鱗状の薄雲でかえっていざよう月が魅力的に見えます。毛布にくるまって月見酒中。お酒は日本酒、あては昼間調達しておいた鯛の子に卯の花(と、あと数品)。うう、旨い・・。(けど寒い)。

昨日みた映画は・・『永遠の門 ゴッホの見た未来』

gaga.ne.jp

https://en.wikipedia.org/wiki/At_Eternity%27s_Gate_(film)

ヴェネツィア(映画祭)で主演男優賞獲ったウィレム・デフォーWillem Dafoeの名演技ばかりが光る(←皮肉っぽく言うてます)映画かしらんと思い、ゴッホVincent Willem van Goghの伝記映画もいろいろ観てるからなぁと思い、スルーしよかとさえ思ってたのですが、観てよかった! これ、むしろ監督のジュリアン・シュナーベルJulian Schnabel の野心がみごとに成功をみた映画ですよね。
ところで、わたしが海外旅行好きなのもそうなんです。旅行先で美しいものを見るとか美味しいもの食べるとか人と出会いがあるとか、もちろんそういうのもものすごく楽しいんですが、基本わたしは、現地の空の下にいて、現地の空気のなかにいて、現地の光を見て/あびて、現地の風景のなかに居る、というだけでいい。これはたぶんわたしの映画好きとかかわっていて、映像や画像などで知った見知らぬ地を、現地に行って体験してみると(べつに「聖地めぐり」が趣味なわけでもないのです)、なんというか、スケール感がちがうんですね。もっと大きいかなと想像してたのが意外とこじんまりだったり、逆にかたちよく整った全体だと思ってたものが現地行くとどどーんと過剰に迫ってくるなにものかだったり・・大小だけでなく、現地へ行ってその場の中にいて感じるそれぞれ独特の場の存在感があって・・それを経験してまたうちに帰って、今度は自分が行った場所が舞台になった映画を観て、ああ、ここ行ったなと思い出すと(これは日本の知ってる街でも同じです。かつて住んだ場もいま住んでるところもよく訪れる街も、ほん近所で撮られる映画が多いし)、その現地感を身の内に再現しつつ、その映画内の場の感覚も味わいつつ、二重に美味しくなるというわけ。
・・って、話が逸れてるようですが、逸れていないのは、アルルArlesという街は、ン十年前、わたしが初めて体験した海外旅行のなかで立ち寄った街の一つで、あ、この空気が、この光が、この風景が、わたしは味わいたかったのだ・・と悟った街でもあったのでした。そう。まさしくゴッホの絵、セザンヌの絵が、この光のもとに、この空気のなかで、この風景を写して、できあがっていたのだと、感動したまさしくその地であったのでした。
そのおなじ感動を、シュナーベルは映画にとどめようとしているのですね。ゴッホの目に映ったアルルの光、アルルの風、アルルの空気、そのほかの地もそれぞれの空気や光、そして、それぞれの地で出会ったひとびと、その人々の不可思議な言動、なによりも不可思議な「自分」の内面や、そういうものにいちいち遭遇した、ゴッホの驚きと感動。その目だったり感覚だったりを、ごくごく間近に(主観的に/揺れる手持ちキャメラで/クロースアップで)捉えようとしたのが、監督の野心だったのでしょう。
言語の使い分けも面白かった。現実のゴッホオランダ語とフランス語を喋ったにちがいないのに、映画内母語を英語に措いて(これはいまの映画の常套かもしれないけど)、主人公がごく近しい会話を交わすときには英語、すこし心理的距離の離れた相手と喋ったり、画商だったり画壇だったり主人公を取り巻く第三者が喋ってる場面ではフランス語が使われている。ポール・ゴーギャンPaul Gauguinなんてフランス人だからゴッホとの間でもフランス語を喋ったに違いないのに、映画内でがオスカー・アイザックOscar Isaacがウィレム・デフォーに対しフランス語をやめて英語で喋り始める場面が印象的でした。
ゴッホの目が捉えたとても近しく親しいのに異物(他者)であったクロースアップの人びとにいろんな曲者俳優らが配されていたのも嬉しいところで、いちいち挙げませんが、特にどーんとものすごいどアップで登場するエマニュエル・セニエEmmanuelle Seignerとか、思いがけないとこで出てくるニエル・アレストリュプNiels Arestrupあたり嬉しかったです。ステラ・シュナーベルStella Schnabelとか、監督の娘やん!